今日のみ言葉(2011年8月25日)【No.155】
「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたち
の受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」
(第2コリント1:5)
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苦難あるところ、慰めもまたあります。
苦しみが続くのは、神がいないから、あるいは、神が私を見捨てたからだ、と思
いたくなるものです。
いくら祈っても苦痛は取り去られません。しかし、慰めは与えられ続けます。
私たちはフラフラになりながらも、慰めによって息を吹き返し、また試練に立ち
向かっていく…。
これが現実のありのままの姿なのではないでしょうか。
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この苦しみはキリストも味わわれました。
あなたが一刻も早く解放されたいというその痛み、苦しみ、重苦しい不安、常に
頭の一隅を占有している思い煩い…。
イエス・キリストはその苦しみ全てを体験され、私たちの思いを理解しておられ
ます。
ですから、私たちのそばに来て、目には見えないその両手で私たちの手を握り、
「恐いよね、心配だよね。」
と慰めて下さるのです。
そして、それだけで人間は十分なのです。
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作家の遠藤周作氏の本の中に、こんなお話があります。
遠藤氏が入院中、夜、獣の吠えるような声が聞こえてきました。翌朝、看護師さ
んに聞くと、個人情報保護法が施行されるずっと以前の時代でしたので、
「末期のガン患者さんです。当人は医師で、もう痛みにモルヒネも効かない状態
なので仕方ないんです。」
という答えが返ってきました。
「じゃあ、そういう時、どうするのか」
と尋ねると、
「その手を握ってあげます。そうすると、少しずつ静かになっていくのです。」
この答えに、遠藤氏は「そんな馬鹿な。ありっこない。」と思います。
しかしこの後、彼が手術後の痛みの夜を迎え、麻酔薬もこれ以上打てない状態の
時、看護師さんが手をじっと握ってベッドの横に座って下さいました。
すると、痛みが少しずつ鎮まってきたのです。
「ひとりではない」、「私のことをわかってくれる人がいる」
この慰めが人の心を癒し、力づけるのです。
その慰めは、私たちがキリストの苦難を共に味わう時に、キリストから与えられ、
そして今度は私たちが誰かの慰め手となっていくのです。
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苦難と共に与えられる神の慰めを味わっていきましょう。
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