今日のみ言葉【No.1578】(2017年 7月29日)「 忠犬ハチ公の愛」
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
(創世記2:17)
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渋谷駅のハチ公像前は待ち合わせ場所の定番です。
「忠犬ハチ公」の話が人々の心を打つのは、飼い主の死後10年間、ハチが朝夕渋谷駅に迎えに行った忠実さにあります。
神が人間をエデンの園に住まわせ、その管理を委ねた時に求められたのはこの忠実さです。
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エデンの園で神は人間に祝福と自由を与えられ、この楽園の維持管理を任されました。
誰かに何かをまかせるのは、その人の中に「そう出来る」という能力があり、信頼に応えてくれると見込んだからです。
管理する能力がなく、信頼しても裏切られるだろうな、という人にはそもそもそんな話を持ち込むことさえしません。
さて、任されるということは、そこに責任が生じます。
神の御心に対して正しく応答しなければならないのです。
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エデンの園では一見何でも自由であるように見えますが、神は一つのことを「お願い」や「要求」以上の「命令」として下されました。
「主なる神はその人に命じて言われた」
(創世記2:16)
それはどんな命令かというと、園のどの木からでも自由に食べてよいが、ただ1つの木からだけは取って食べてはならないという制限でした。
「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない」
(創世記2:17)
神は人間の自由に制限を設けられたのです。
この命令に従うかどうか人間はテストされたと言ってもよいでしょう。
しかもこの命令には人の生死がかかっているという重大なものでした。
「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
(創世記2:17)
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エデンの園で人間が享受していたのは、どんなことも「なるほどそういうことか」と納得できる祝福でした。
人はすべてのものがハーモニーを奏でる世界の中に生かされていたのです。
そしてこの楽園の維持は、人間が神の命令に服するか、あるいは不服従を選択して生きるかのどちらかにかかっていました。
続く創世記第3章の悲劇的内容を理解するためには、今日の聖句が重要なポイントとなります。
人間は神に愛されていることに対してどう生きるか、その責任を問われる存在なのです。
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ハチ公を世に知らせた斎藤弘吉氏は、意外なことに
「ハチの心を考えると恩を忘れない、恩にむくいるなどという気持ちは少しもあったとは思えません」
と語っています。
「渋谷駅を離れなかったのは、心から可愛がってくれた到底忘れることのできない博士に会いたかったのである。ハチ公の本当の気持ちは、大好きな博士にとびつき自分の顔を思いきりおしつけて、尾をふりたかったのである」
(http://www.en.a.u-tokyo.ac.jp/hachi_ueno_hp/hp/prospectus.htm 「東大ハチ公物語」より)
生後50日で秋田県から上野英三郎博士のもとに連れて来られたハチは身体が弱かったといいます。
そのハチを、上野博士は自分のベッドの下に寝かせ、細やかな心配りをして大事に育て、愛し、東京大学や渋谷駅にいつも送り迎えさせていたのです。
この主人に愛されたハチ公の愛の表現が、死ぬまで渋谷駅に通った行動となったのでしょう。
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神の愛にふれた記憶があなたの応答として現れます。
今日も神の愛に浸る一日として生きて参りましょう。
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