今日のみ言葉【No.1499】(2017年 3月23日) 073 「生まれつきの盲人」(3)
「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
(ヨハネ9:7)
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幼稚園に入る前の子供を連れて、家族で蔵王山にハイキングに出かけたことがあります。
ドッコ沼周辺の美しい景色を楽しみ、しばらく歩いていると、「不動滝まで1km」という道しるべが見えました。
「1kmなら、ちょっと行ってみるか」
私はふもとの平坦な地の1kmと山の中の1kmの違いを全く認識していませんでした。
それはハイキングなどというものではなく、トレッキング、いえ、子供をおんぶして険しい坂を登ったり降りたりですから登山と言っても良いほどの行程となりました。
15分もあれば着くかと軽く考えていた私たちは、1時間かけてようやく滝までたどり着き、そしてもう1時間かけて、汗だくでほうほうの体で帰ることになりました。
ヨハネ9章のこの目の見えない人が、シロアムの池に行きなさいとイエス様から言われた時、きっとこのようなひと仕事をしなければならないと想像できたことでしょう。
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イエス様はこの時、なぜか即座に癒すということをなさいませんでした。
「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」
(ヨハネ9:7)
彼の目に泥を塗り、シロアムの池まで行って目を洗うようにと言われたのです。
この場所から池まで約1kmあります。
昔のことですから道路は舗装されていません。
しかも、目の見えない人が1km歩くことは時間と労力を要することです。
しかし、彼はキリストの言葉を信じ、シロアムの池に向かいました。
そして
「見えるようになって、帰って行った」
(ヨハネ9:7)
のです。
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神の言葉が成就するまでに、時が必要です。
また、成就するまで疑いがつきまとうのが当たり前です。
信じるとは疑いとの戦いです。
この盲人の場合、
「地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って」
(ヨハネ9:6)
ということをされたわけですが、もしかしたらもてあそばれ、騙されているのかもしれない、と彼は考えることもできました。
シロアムの池まで苦労して行って目を洗っても、何も変わらないかもしれません。
成るか成らぬかまだ明確でない時期を、その通りになると信じ続ける忍耐が要求されます。
私たちはその間、信仰が試され、磨き上げられ、そして約束のものを受けるのです。
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まず素直に信じてみる。
そこから神と共なる歩みは始まります。
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