今日のみ言葉【No.1338】(2016年 7月26日) 019「遺産分けの相談に来た人」(1)
それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
(ルカ12:15)
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私は3人兄弟の長男です。
親の介護をしてみてわかりました。手続きの全ては、まず最初に長男に来ます。
この運命からは逃れられないのだと悟った私は、次にやってくる「相続」の問題について、先に弁護士さんに相談に行きました。
詳しい説明を受け、納得して帰る段になったとき、弁護士さんが言われた最後の一言が忘れられません。
「兄弟仲良く。これが一番!」
数多くの相続問題を手がけてこられた弁護士さんの実感こもったエッセンス中のエッセンスのアドバイスでした。
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イエス・キリストのもとに遺産分けの相談にきた人がいました。
この出来事は、イエス様が弟子たちに話しておられた最中に、群衆の中からひとりの人が割って入ったような雰囲気があります。
当時のラビ(律法の教師)は、宗教的なことに関わるだけでなく、民事訴訟や商売上のトラブルなどの争議の調停役も兼ねていましたから、このような願いをすること自体、おかしなことではなかったでしょう。
しかし、この人はイエス様が大切なことを弟子たちに教えておられる真っ最中に、それをさえぎるような形で調停を願い出ました。
そこに彼の生き方、心が現れ出ているのではないでしょうか。
人に助けてもらったり、相談することは悪いことではありません。
しかしこの人の場合、イエス様を利用しようとしてやって来た感があります。
もう少し言うと、非人格的な関わり方です。
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人格的関わりと非人格的関わりを説明する時、私はよく自動販売機のたとえをお話しします。
飲み物を選び、規定のお金を入れ、飲みたいドリンクのところのボタンを押すと、必ずそれがガタンと落ちてきます。
コーヒーなら必ずコーヒーが、オレンジジュースなら必ずそれが取り出されます。
自動販売機に人格はありませんから、これが当たり前です。
もしも自動販売機に人格があったら、こうはなりません。
ジュースのボタンを押したのに、ミネラルウォーターが出てくるときがあるのです。
「なんで?」
と目を白黒させていると、自動販売機が
「最近、糖分取り過ぎみたいだから、心配に思って…」
と答えます。
結果だけを求める人にとっては、このような自動販売機は迷惑でしかありません。
手っ取り早く自分の願望を満たそうとだけする人は、非人格的対応を求めるのです。
そのような人生の結果は、遺産分けの相談に来た人のように「持ち物」であふれかえる人生となります。
しかし、いのちのないものを集めても、真の頼りとはなりません。
そこでこの人は、
「これでもまだ足りない。頼りにならない。もっとだ。」
と、いのちのないものを集め続ける人生を送っていくことになるのです。
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イエス様がこの人の願いを受け付けなかったのは、非人格的対応だけを求めるパターンに終止符を打たせるためです。
イエス様は、愛を持った人格的神との出会いをさせようと考えておられる方だからです。
人格を持った神との、いのちの出会い。
イエス様はその出会いをさせようとして今も働いておられます。
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神の拒否に出会う時は、神との人格的出会いの時です。
いのちの出会いを体験する今日として参りましょう。
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