今日のみ言葉【No.1339】(2016年 7月27日) 019 「遺産分けの相談に来た人」(2)

そこで一つの譬を語られた
(ルカ12:16)

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パプアニューギニア島の奥地に伝道に行った宣教師が、現地の住民と仲良くなりました。

木と葉っぱで造られたお家に招かれた時、

「お前はどんな家に住んでいるか?」

と尋ねられました。

彼は母国ではマンションの7階に住んでいましたが、高層ビルなど見たこともない人たちにそれを理解させるのは至難の業です。

結局彼は、

「家の上に家があり、またその上に家があり…」

と、彼らが見ているものを材料にして説明し始めました。

聞いていた人たちは、

「それでは下の家は潰れるだろう」

などと言いながらも、ある程度はわかってくれたそうです。

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全く新しいことを理解してもらうには、身近な存在を使って説明します。

これを「譬(たとえ)」と言います。

イエス様は遺産分けの相談に来た人と群衆に対して、16節以降、ある金持のたとえ話をなさいました。

それによって、いかに自分が物に執着し、頼りにならないものに頼りきっているのかを理解させようとなさったのです。

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このたとえ話の主人公の金持には強い意識が見られます。

それは以下の言葉であらわにされています。

「わたしの作物」(17節)

「わたしの倉」(18節)

「自分の魂」(19節)

「自分の所有」という意識が強い人という設定のたとえ話です。

聞いていた群衆は、「ああ、あの人のことだ」とか「嫌なアイツの事だ」と身近な人の顔を思い浮かべたことでしょう。

もちろん、自分を愛し、自分自身をケアすることは必要なことです。

しかし、自分のためにだけ生きると、この話のような誤った人生の使い方をしてしまうことになるのです。

たとえ話とは言え、この金持の人生の送り方の根本的過ちが、実は自分たちの生き方を指しているのだ、とジワリと迫ってくるのが、イエス様の最後の締めくくりの言葉です。

「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」
(ルカ12:21)

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聖書はこの後、遺産分けの相談に来た人がどうなったかを記していません。

その場で悔い改めた…、のでないことだけは確かです。

イエス様がたとえを使って語るのは、聞いた人の理解力に合わせておられるからです。

今日、イエス様に出会って、それが分からなくても、そのたとえ話が心に残り、その後、様々な人生経験を積んだ後、

「ハッ、と気づきが与えられる瞬間」

があるのです。

イエス様はその時のために、私たちの心に神のいのちの種を蒔いておられ、やがて芽が出て花が咲き、豊かな実がなる時を待っておられます。

一度目の出会いで真の出会いを果たすことができず、元の道に帰ってしまったとしても、二度目の出会いを神は期待し、そのためにたとえ話を用いて語られていることを忘れないでいましょう。

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今わからなくても、やがて分かる時が来ます。

人生の収穫の時があることを信じ、神の畑に種を蒔く今日一日として参りましょう。

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