今日のみ言葉【No.1321】(2016年 7月 5日) 013 「右手のなえた人」(2)
「起きて、まん中に立ちなさい」
(ルカ6:8)
——————
夏目漱石は作家になる前、英語教師をしていました。
時代は明治。和服を着て授業を受けている学生の中に、手を懐(ふところ)に入れたままにした人がいました。
漱石は教師に対する無礼な態度と思ったのでしょう、手を出したまえ、と注意しました。
学生は無言のまま手を出しません。
見かねた周囲の友人が、「先生、この人はもともと手がないのです」と言いました。
教室は凍りついた雰囲気。
状況がわかった漱石は、しばらくの沈黙の後、「私もない知恵を絞って出しているのだから、君もない腕を出したまえ」と言ったそうです。
苦し紛れのユーモアで、果たしてその学生さんの慰めになったのかはわかりませんが、夏目漱石の人柄を表すエピソードとして残っているところを見ると、その場の雰囲気は和んだのかもしれません。
-*-*-*-*-*-*-
ルカ6章に出てくる右手のなえた人も、動かない腕を隠していたのかもしれません。
そして、
「起きて、まん中に立ちなさい」
(ルカ6:8)
というイエス様の言葉から察すると、
「起きて」 → 横たわっていた
「まん中」 → 会堂の端の方にいた
ということが考えられます。
端っこにいる人には理由があります。
彼はそのままの姿では出て来られなかったのです。
「はい、私は右手が動かなくなりましたが、その私で生きております」
と、不自由となった身体のまま、堂々と会堂に出てくる自信はなかったのです。
できれば知られないようにして、知られないままで帰りたい…。
自分自身の状況を受け入れることができない人。
それがこの右手のなえた人でした。
-*-*-*-*-*-*-
しかし本人は隠しているつもり、見えていないつもりでも、意外に周りの人々は知っていて、言わないだけです。
実際、パリサイ人たちは彼の存在を利用しました。
イエス様が安息日に癒やしをするかどうか、じっと見ていたのです。
「律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。」
(ルカ6:7)
安息日には仕事をしてはならないと律法に記されています。
癒しは医療行為ですから仕事に当たります。
今日の安息日、右手のなえた人を癒やせば律法違反になります。
癒さなければ、困っている人を見放したイエスは愛のない者だと追求できます。
彼らは虎視眈々とつけいる隙を狙っていました。
-*-*-*-*-*-*-
衆人の注目が集まるその真ん中に出ることは、彼にとって単なる場所の移動という意味ではありません。
右手が動かないことを認めることは、自分のプライドや自信が打ち砕かれることです。
真ん中に出てくるということは、それを自分の手でやるということを意味します。
病になり切る、ということは、自分自身になり切るということです。
病気が治るためには、「私は病気なんだ」と認めなければなりません。
自分になりきって、初めてそこから回復が始まるのです。
端から真ん中へ出ることで、初めて本当の自分になれるのです。
自分以外の自分を演じてキリストに出会おうと思っても、会うことはできません。
こんな自分であったのか、こんなに力の無い者であったのか、こんなに欲深だったのか…。
そのような自分を認めた時、イエス様との出会いがあるのです。
-*-*-*-*-*-*-
あなたにとって、「なえた右手」に象徴される人生の問題があるでしょうか。
キリストによってその問題が解決されるためには、ありのままの自分を認め、素直にイエス様の前に出て、その問題を差し出すことです。
今日、イエス様はあなたが「起きて、まん中に立つ」のを待っておられます。
-*-*-*-*-*-*-
●配信停止は下記に空メールを送信して下さい。
del@mikotoba.org
●お申し込みも同様です。
reg@mikotoba.org
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません