今日のみ言葉【No.1287】(2016年 5月19日) 002 「羊飼たち」(1)
さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
(ルカ2:8-9)
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ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルのエレベーターの前で待っていると、いかにもアメリカの農家の団体さんだな、とわかる年配のお客様たちと一緒になりました。
聞くことはなしに耳に入ってくる英語から
「生き物を飼っているので1日たりとも家を空けられなかった」
「息子夫婦に任せて、初めてワイフと一緒に旅行ができた」
という内容が聞こえてきました。
第一線から退き、引退して、おそらく最初で最後のニューヨーク旅行なのでしょう。
アメリカの畜産農家さんも苦労が多いんだな、と私は彼らの顔のしわに刻みつけられた苦労の跡を見ながら、思わずホロっと来たことを覚えています。
イエス様と出会った2番目の人々は、羊飼であったというのが今日の聖句です。
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ヨセフとマリヤの次に、みどり子イエスを目にしたのは誰でしょうか?
いくら飼葉おけしか寝かせる所がなかったとしても、満員の宿屋からそう離れた場所ではなかったでしょう。
ベツレヘムの村人や宿屋の泊まり客が一番近くにいたはずです。
ところが、光栄ある最初の目撃者に選ばれたのは、町外れの野で羊の番をしていた羊飼たちでした。
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驚くべきことに、新約聖書での羊飼の登場はルカ2章のこの個所1回きりです。
イスラエルの家畜の中で最も親しみがあり、どこにでもいる羊。それを養う羊飼。
しかし彼らはこの個所以外どこにも登場しません。
もちろん、イエス様が霊的たとえとして
「わたしはよい羊飼である」
(ヨハネ10:11)
のように語っているところはあります。
しかし、後はないのです。
この事実の意味するところは、彼らは社会的影響力が小さい存在だったということです。
つまり、いてもいなくても、あまり関係がない人々であったということです。
実際、彼らは神殿の儀式に参加することができず、律法を守ることからは程遠い生活でした。
また、ヨセフとマリヤですらローマ皇帝の勅令ではるばるベツレヘムに来なければならなかったのとは違い、羊飼たちにはその厳重な命令が適用されていませんでした。
納税の対象ともならないほど貧しく、社会的にはあてにされていない者として見られていたからです。
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その羊飼たちに対して、
「主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照した」
(ルカ2:9)
のです。
彼らは、家族以外でイエス様に最初に出会える特権中の特権をいただいたのです。
これは神の選びとしか言うことができません。
イエス様のこれからの生活が有利になるように、高貴な人々や経済力のある人々が最初に選ばれたのではありません。
何の力もない羊飼を神様が選んでイエス様と出会わせてくださった今日の聖書個所は、私たちの希望です。
私たちも、力がなくとも、会える資格などなくとも、野にいた羊飼を神が選んでくださったように、私たちも選ばれ、イエス様と出会うことができるのです。
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見捨てられた人こそ神様は選んでくださいます。
選びの特権が与えられていることを覚えて、今日もしっかりと一歩を踏み出して参りましょう。
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