今日のみ言葉【No.1174】(2015年11月 7日)

これが悲しみの言葉、また悲しみの歌となった。
(エゼキエル19:14)

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プロ野球ドラフト会議で指名される実力がありながら、最後まで名前が呼ばれなかった大学野球の選手たちがいます。

彼らの中の一人は、

「泣いて朝まで寝られず、2、3日間は立ち直れなかった。野球が嫌いになりそうだった」

とコメントしているそうです。

しかし、その屈辱から逃げずに、

「なぜ彼は選ばれ、僕は選ばれなかったのだろう?」

と真正面からその現実に向き合い、精進を重ねる選手が、次にやって来るチャンスをものにするのでしょう。

「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」
(詩篇30:5)

しっかりと悲しんだ人が、しっかりと次に与えられる喜びを得ていくのです。

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エゼキエル書第19章は、悲しみの歌であり哀歌です。

2頭の子獅子は君主たる王を表し、後半のぶどうの木は南ユダ王国を表します。

いずれも滅んでしまいます。

「これが悲しみの言葉、また悲しみの歌となった。」
(エゼキエル19:14)

第19章は悲しみのみで完結し、そこに救いはありません。

人生にはこの悲しみの夜があります。

好むと好まざるとにかかわらず、この真っ暗闇の夜を過ごし切った後に、喜びの朝の光が差し込んでくるのです。

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どの地方にも独特の風習・慣習があるものです。

今は形式だけになったかもしれませんが、葬儀の出棺の際に「棺の釘打ち」をする土地がありました。

ご遺族の方が震える手でトントンと釘を打つ時、本当にこれでもう会えないのだ、という思いから涙がほとばしるように流れだし、見ているこちら側が残酷なことをさせているような感に襲われました。

私が司式をさせていただいた葬儀の中で、あれほど遺族も参列者も悲しみの涙で埋め尽くされた葬儀はありません。

さて、その後日談です。

強制的と見えるほどの「愛する者との離別」に向き合わされたご家族は、ショックで寝込んでしまうのではないか、と私は心配しました。

通常、「1年間は喪に服する」といいますが、それは心の痛手が癒やされるまでには1年は優にかかるという我々の体験から出た言葉でしょう。

しかし、このご家族ほど立ち直りが早かった方々はいませんでした。

1年も立たないうちに、

「ありがとうございました。皆さんのおかげで支えられました」

と笑顔で挨拶されるようになり、新たな人生へのチャレンジを始められたのです。

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悲しみの夜を過ごし切ること。

これが神が私たちに与えておられる喜びの朝への切符です。

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