今日のみ言葉【No.1089】(2015年 7月17日)
その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う
(イザヤ58:14)
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断食をしてみると、いかに自分は生きることに執着しているのか、よく分かります。
たった1食抜いただけでも、
「死ぬのではないか…」
という恐怖が出てくる私などはその典型的例の人間です。
人のことなどどうでもよく、ただ我のこと、自分、自分、自分…。
断食初期にはそのような未知の自分との出会いがあり、そこからやり甲斐のある戦いが始まります。
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イザヤ書第58章では、民の偽善の祈りと誤った断食観が糾弾されています。
「私たちはこれだけ頑張っているのに、祝福が来ないではないか」
これがその当時の民に蔓延していた偽らざる心境だったでしょう。
全てを捨ててバビロンから帰還し、食べるにも貧するエルサレムで苦労して働き、小さいながらも神殿を再建しました。
会堂で祈りの時間を取り、断食もしていました。
しかし生活は豊かにならず、試練は続きます。
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祈りと断食を定期的に続けるということは、一見、素晴らしい宗教的行為ですが、当時はこれが形式化・義務化していました。
新約聖書でもパリサイ人が自分の行為を人に誇る祈りの言葉が記されています。
「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」
(ルカ18:12)
つまり、断食をすることが神に対する敬虔度を表し、それだけやっているのだから神様だって恵みを与えるのは当然だろう、と、断食の祈りが祝福を得て自分の生活を改善させるための手段となっていたのです。
「われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか」
(イザヤ58:3)
今の生活がうまく行かないのは、神のせいだ、と責任を神に押し付けていたのがイザヤ第58章時代のイスラエルの民の姿でした。
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これに対してイザヤは、6節以降で「わたしが選ぶところの断食は、…」と神が求める正しいあり方を力説し、その通りにした場合の麗しい結果をも語っています。
そのポイントは、自分のためにやるのではなく、
「人を愛し、神を愛するために行うのだ」
ということです。
「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、」
(イザヤ58:10)
「安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、」
(イザヤ58:13)
ここが一番のチェックポイントです。
そうすれば、神の祝福が来る来ないは問題ではなくなるのです。
断食は肉体的にはつらいものですが、それ以上に、神につながっているという思いが、強くかつ明確になり、気分的にはとても充実した感覚に包まれます。
その時
「あなたは主によって喜びを得、」
(イザヤ58:14)
という御言葉が成就するのです。
そして、祝福を得る手段としての頑張りをやめ、主なる神を愛する喜びを味わい続けていくと、自分の意図しないところで神の祝福が与えられていることにお気づきになるでしょう。
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今日も主にある喜びを得る一日として参りましょう。
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