今日のみ言葉【No.1059】(2015年 6月 9日)

あざける人々よ、主の言葉を聞け。
(イザヤ28:14)

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テレビでCMを出す規模の会社の社長さんたちが集まる会で講演をさせていただいたことがあります。

そうそうたる面々を前にして、私は

「こんな若造の話など聞いてもらえるのだろうか?」

と緊張していました。

驚いたことに、皆さんお話を熱心に聞いてくださるのです。

私が、

「第1のポイントは…」

と言うと、すぐさま、

「シャカシャカシャカ…」

とテキストをめくる音が一斉に響き、

私が続けて話すと、

「カリカリカリ…」

とメモを取る音が会場中に充満します。

見ると社長さん全員が書き込んでいるのです。

一流と言われる会社の社長さんは、どんなところからも吸収しようとする謙遜で従順な方々でした。

また、そういう方々だからこそ、世の競争の中で会社を存続させ、さらに上のレベルへと発展させていくことができるのでしょう。

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イザヤ書第28章では、そのような一流のリーダーの姿とは反対の、

「あざける」

態度をとった指導者たちと民の行く末が預言されています。

彼らはエジプトとの同盟関係を得たことによって、アッスリヤの勢力に対抗できると考えました。

一方、イザヤはそのように社会情勢を読むことをせず、エジプトはいざという時には助けてくれない存在であり、そこに頼るのは空しい、神に寄り頼め、と力説しました。

しかし彼らはイザヤの言葉を軽んじました。

「彼はだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあかそうとするのか。乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。」
(イザヤ28:9)

謙遜に耳を傾けるべきだったのに、その言葉の重さを彼らは量ることができなかったのです。

残念なことです。

しかしイザヤは嘲られてもバカにされても神の言葉を語り続けます。

「それゆえ、あなたがたはあざけってはならない。さもないと、あなたがたのなわめは、きびしくなる。わたしは主なる万軍の神から全地の上に臨む滅びの宣言を聞いたからである。」
(イザヤ28:22)

神の目的は、滅びをもたらすことではなく、警告を与え、それによって民が悔い改め、新たな希望の未来を生きることです。

強烈な滅びの宣告をされたのは、それによって人に方向転換をさせ、命を得させるためです。

神の言葉の重さを量ろうとするかそうでないか…。

人生の分かれ道はそのところにあります。

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「栄光」という言葉は、ヘブル語で「カーボード(כָּבוֹד)」と言います。

実はこれには「重い」とか「重さ」という意味があり、「栄光」という漢字から受ける「光り輝いている」というイメージはありません。

パウロが

「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」
(第2コリント4:17)

と記したように、栄光は重いのです。

私たちの日常生活にあっても、いかに神の存在が重いか。

神の言葉が、大切な重い言葉となって私たちの生活を左右する状態であること。

これが神の栄光を表す生活ということです。

神の言葉を重々しく受け止め、軽々しく扱わないこと。

聖書の御言葉を果たそうとして動いていくこと。

これらが、神の言葉の重さを量り、神の素晴らしさ(栄光)を表す生き方となるのです。

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何百人という職員・利用者を抱えるある施設の長の方が礼拝に出席されました。

礼拝が終わった後の和やかなお茶の席で、こんな質問が出ました。

「責任あるお立場で、ストレス満載でしょうが、どのようにそれを解消しておられるのですか?」

すると、

「まず運動です。身体を動かしています。」

という一般的な答。そしてその次に、

「聖書を読んでいます。毎日一章、必ず読んでいます。」

決して派手ではありませんが、何年間も地道にやっておられるそのお人柄の背景には、やはりそのようなことがあったのかと納得しました。

神の言葉を重いものとして生活の中心に据え、またその御言葉が不動の土台となってその方を支えているのが見えるようでした。

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今日も神の御言葉を聞く一日として参りましょう。

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