今日のみ言葉【No.980】(2015年 2月14日)

その大能のはたらきのゆえに主をほめたたえよ。
(詩篇150:2)

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「キリスト教神学」というといかにも堅そうな感じがしますが、そのたぐいの本を読むと本当に堅い書物ばかりです。

私は、カクカクシカジカの理由で神は存在するという証明をしてくれるのが神学だと思っていました。

しかし、その神学を学ぶ最初の授業、テキストを開けて、基礎の基礎、入門以前の部分を読んだ時、私はアッと驚きました。

神学は、「活ける信仰者の群れ」の中で存在する学問だ、というのです。

つまり、神を証明できるできないという話とは無関係で、最初から神を信じる人たちが存在し、その中で、神はどんな御方かを学び研究する学問だというのです。

「活ける信仰者の群れ」

という言葉がとても鮮烈に感じられました。

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世にはクリスチャンに否定的態度を取る人や、キリスト教反対派の人がいらっしゃいます。

確かに、神を信じる理由は山ほど挙げられますが、信じられない理由も山ほど挙げられます。

その中であえて「活ける信仰者の群れ」となっている人々とは、

「その大能のはたらきのゆえに主をほめたたえよ。」
(詩篇150:2)

という今日の聖句にあるように、神の大きな働きを自分の人生で実際に体験した人たちです。

これが大きいのです。決定的、動かしようのない事実と言ってもいいでしょう。

かと言って、体験を重視しすぎると、これも問題です。

神学的には、

「キリストにおける神の客観的啓示の事実が、聖霊によって個人の霊の中で主観的事実となって起こる」

という堅い表現ですが、慎重に吟味する必要があります。

グッと砕けた私たちの日常レベルの言葉にすると、

「誰が何と言おうと、あのことは聖書の神がなさったとしか考えられない」

ということになるでしょう。

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クリスチャンの場合、「願いがかなった」「奇跡的に助かった」という体験を糸口として、「神の大能のはたらき」に目が開かれていきますが、やはり本丸は罪の赦しの体験です。

キリストの十字架です。

自分がどんなに罪人であり、その取るに足りないこの私を神がどんなに愛し、ひとり子のイエス様をさえ差し出してくださったという愛を知ること。

それを知らずに方向違いのことを沢山しでかし、ついには人生の迷子になっていること。

あなたがこれらすべてを認め、イエス・キリストがこの私の全ての罪を十字架で負ってくださったと信じる時、罪が赦され、救いが与えられます。

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あなたは誰をも傷つけたことはないかもしれません。

しかし、もしかしたら

「私ってなんてダメな人間なんだろう…」

と自分を傷つけ、自分を精一杯責め続ける日々を送ってきたのではないでしょうか。

その方は、

「わたしもあなたを罰しない」
(ヨハネ8:11)

という言葉をお聞き下さい。

そして、神に造られた自分という存在を責め続け、痛めつけて正していこうとしていた的外れの考えから方向転換し、神のゆるしを受け入れ、自分をゆるしていきましょう。

その先に必ず「神の大能のはたらき」があります。

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神の大きな働きを覚える一日となりますように…。

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