今日のみ言葉【No.974】(2015年 2月 6日)

わが岩なる主はほむべきかな。
(詩篇144:1)

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1918年生まれで90歳を過ぎても、毎週、新聞のコラムを連載する吉沢久子さん。

「老いにつきあう」よりも「老いのおもしろさ」を追求しておられます。

たとえば、重厚感が魅力で買った益子焼の器でしたが、逆にその重さがつらくなってきました。

そのことから、若い時の自分は

「あれも使える、これもまだ使える」

と物に執着していたのだ、と発見したそうです。

吉沢さんはこう言われます。

「執着できなくなると、人は思い切りがよくなるものですね」
(NHK 『ためしてガッテン』誌より)

老化と共に出来ることが出来なくなるというマイナスに見えることが、かえって人生を充実させるとは、さすが現役の生活評論家の卓見です。

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今日の聖句も同じです。

「わが岩なる主はほむべきかな。」
(詩篇144:1)

大きくて堅固な岩はどこにあるでしょうか?

そうです、雨の降らない荒野にあるのです。

人間の快適な生活のためには、雨が降り、緑が生い茂り、作物が豊かに実る土地のほうが良いに決まっています。

しかし、雨が届かいない不毛の地に見えるところに岩がむき出しとなり、その不動の岩の存在を見るときに、私たちは神の確かさを実感するのです。

何の収穫も得られず、悲しみばかりを味わう人生の時期があることでしょう。

しかし、そこに置かれなければ見ることのできない「岩」があるのです。

人生の暗い時期だからこそ得られる神の存在の確かさ。

ここから

「わが岩なる主はほむべきかな。」
(詩篇144:1)

という賛美が生まれてきます。

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私が人生で一番祈った時期は、洗礼の時でも結婚の前でもありません。

神学校の卒業論文を書かなければならない時でした。

私がいたのは情報が得やすい東京ではなく米沢でした。

今のようにインターネットなどない時代でしたから、資料は本のみ。しかも当時、あちこちの図書館をめぐりましたが、日本語のキリスト教の文献など極々限られています。

論文作成のために特別に時間が与えられているわけでもなく、通常通りの教会の奉仕の時間の合間に必死になって書くわけですが、原稿用紙100枚完成は不可能なことに見えました。

「神様、卒論、期日に間に合わせて下さい。そしてもしこの論文が完成したら、本当にあなたの存在を信じます。」

と真剣にお祈りしたことを覚えています。

しかし、不思議に少数の本の中に、ピタリピタリと論文のテーマに当てはまることが見いだされたり、先生方のアドバイスがひとつも無駄になることがなかったりで、本当に完成してしまいました。

神は不毛と見える地で、祈りを聞く約束を果たして下さり、岩以上の確かさを私の人生に刻んで下さったことを賛美し、感謝しました。

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雨の降らない、緑の草一本も見えないところで、神の岩なる確かさを味わいます。

目の前は荒野でも、神の岩を見出す一日となることを信じ、一歩歩み出しましょう。

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