今日のみ言葉【No.863】(2014年 7月 9日)
正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。
(詩篇33:1)
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信号機の赤・黄・緑にはそれぞれ意味があるということは幼稚園児でも知っています。
しかし知っているつもりで本当は違っているかもしれません。
赤は「止まれ」です。
黄も実は「止まれ」なのです。「急いで進め」ではありません。
ドライバーが黄色で進むことができるのは、車を停止させる事が危険な場合だけです。
緑は「進め」でしょうか?
実は緑だけ命令ではありません。
緑は「進むことができる」という意味です。
つまり、「(他の交通の状況を確認して安全であれば)進んでもよい」という意味なのです。
ですから、「信号が緑になって発進したら、赤信号無視の車がぶつかってきた」という場合でも、あなたに「安全確認を怠った」という落ち度が発生する可能性があります。
緑は赤のような命令ではないからです。
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今日の聖句は「喜べ」という命令形です。
普通私たちは命令されて喜ぶことはないはずです。
嬉しくて喜ぶのが自然のように思いますが、聖書は
「主によって喜べ」
と強制しているように思えます。
これは旧約だけでなく新約聖書でも同じです。
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」
(ピリピ4:4)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」
(第1テサロニケ5:16-18)
神の命令なので私たちは喜ばなければなりません!
ポイントは
「主によって」
というところです。
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私たちは自分の都合に合わせて喜びます。
雨が降らずに晴天続きだと「いい天気だなあ」と喜びます。
一転して水不足になると、カラッとした空を見て恨めしく思います。
そして雨が降りだすと「めぐみの雨だ!」と喜びます。
この生き方では人生のアップダウンが激しくて、一定した喜びの人生は送れません。
聖書は自分に合わせて喜ぶ生き方から、決して変わることのない
「主によって」
「主にあって」
喜びなさいと命じているのです。
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自分の基準を一旦保留にして、神様の基準に目を移さなければなりません。
私が喜ばなければならない理由は何か?
最初は何も見えないでしょう。
むしろ、「そんな企みには乗らないぞ」と警戒心が出てくるかもしれません。
「そう簡単に喜ばされてたまるものか」と怒りが湧いてくる人もおられるかもしれません。
しかし、霊的現実は全く違っています。
私たちには見えませんが、神様は喜びの種をあちらこちらに蒔いておられるのです。
ただ残念なことに、私たちは自分の求めているものしか目に入らないので、神が蒔かれた祝福の種の場所が見えず、せっかく出てきた祝福の芽を踏みつぶしながら、
「この世に喜びなどどこにもない…」
とつぶやきながら歩いているのです。
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まず祈りましょう。
「神様、喜びの種の場所が見えませんから、見えるようにして下さい。」
「見えなくても、そこにあると信じて歩めるように助けて下さい。」
「やがて本当に喜ぶことができるように、とりあえず今日、嬉しい実感は無くとも喜んでおきますので、あとはよろしくお願いします。」
どんな祈りでも神は喜んで聞いて下さいます。
主によって喜ぶ方向へ歩む一日を始めて参りましょう。
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