今日のみ言葉【No.1586】(2017年 8月 8日)「 信仰による決断」
時に主はアブラムに言われた
(創世記12:1)
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「早い、安い、うまい」
これができたらその飲食店は繁盛まちがいなしでしょう。
ファストフードやB級グルメがもてはやされるのも納得です。
ところで、神の救いはこれと正反対で
「遅い、高い、まずい」
です。
人間の救いの完成までには気の遠くなるほどの時間がかかり、高価な、しかも大変つらい犠牲を支払わなければならないからです。
人の魂はB級どころか特A級の価値あるものなのです。
この救いのわざが始められたのが創世記第12章です。
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神はアブラム(後のアブラハム)をお選びになり、この人を起点として人間の救いのご計画を始められました。
アブラムにとって、それは何の脈絡もなく、突然のことでした。
「時に主はアブラムに言われた」
(創世記12:1)
そして神は彼に具体的行動をせよと命じられました。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」
(創世記12:1)
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聖書をより深く読むための一つの方法は、聖書の登場人物と同じ立場に置いてみることです。
つまり
「もし自分がアブラムだったらどうするだろうか?」
と考えて読むのです。
現代的に言えば、突然「社長だ」と名乗る人が現れて、「転勤を命じます。赴任地は後で知らせます。もちろん素晴らしい祝福を約束します」と言われたようなものです。
アブラムの妻サライ(後のサラ)にしてみれば、夫が急に引っ越すと言い出し、将来どうなるかまだわからないという状況です。
否定的面も肯定的面も見える中、アブラムは決断を下しました。
「アブラムは主が言われたようにいで立った」
(創世記12:4)
上記の聖書の読み方をしていれば、彼の決断までの迷いや不安が想像でき、それでも彼を動かす強いものがあったことが理解できるのではないでしょうか。
信仰による決断とはそのようなものなのです。
プラス面だけを取り上げてマイナス面には目をつぶるのではなく、祝福も苦労も両方あることを見て、あえて祝福を選びとり、感謝して生きること。
それが現実の信仰生活の在りかたです。
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昔ある修道院で黒焦げのパンが出されました。
片面を焼き過ぎたのですが、もう一方の面は大丈夫なので、もったいないという理由で大皿に盛られたようです。
沈黙と瞑想と祈りを捧げるのが修道院生活。
誰も言葉には出しませんが、トーストの山を上から一枚々々取るたびに黒焦げのパンが現れます。
「一人の修道僧が『また黒焦げか』と、非常に不機嫌な顔をして自分に当たったトーストを取り、次の人に渡しました。次の修道僧もやはり黒焦げのトーストを自分の皿に取りましたが、その人はトーストを裏返しにして、『あぁ、片側だけでよかった。ありがたかった』といったそうです。」
(『面倒だから、しよう』,渡辺和子著,幻冬舎,P73)
人生は常にどちらを見るかの選択の連続です。
その後のアブラムの人生は苦労の連続でした。
決してバラ色の平坦な道を歩んだのではありません。
しかし彼はその都度与えられた祝福を見、神もその祝福をこれでもかとばかりに見せて下さいました。
神はこのアブラムと共に救いの計画を一歩々々、進めていかれるのです。
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人生を苦難の連続と見るか、救いの連続と見るか。
その選択はあなたの手にかかっています。
今日も神の祝福を見出す一日となりますように…。
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