今日のみ言葉【No.1430】(2016年12月 7日) 050 「イエスに口づけしたユダ」(2)

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

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もしあなたがナイフを突きつけられて

「私のことを愛していますか?」

と言われたら、答えはただ一つしかありません。

「もちろん愛しています!」

ただし、その言葉が本当かどうか、保証はありません。

真実の愛かもしれませんが、命が惜しくて心にもないことを言っただけなのかもしれないからです。

「愛している」という言葉は、何を言っても大丈夫だという時にのみ、本当だということができます。

つまり、「愛している」とも「愛していない」とも両方言うことができ、そのことによっていささかの不利も生じない、という環境の中でのみ、その愛は真実であるということができるのです。

ユダはなぜイエス様から強制的にでも止められなかったのか?

彼は愛され、選択の自由が与えられていたからです。

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イエス様はユダに対して、

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

と言われました。

えっ?「なんのためにきたのか」ですって?

イエス様はとぼけておられるのでしょうか?

既に弟子たちに

「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」
(マタイ26:21)

と言い、その当の本人のユダに対して

「いや、あなただ」
(マタイ26:25)

と告げています。

何を今さら

「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

なのでしょうか?

ここは当然、

「裏切り者!お前が何をしに来たのかわかっているぞ!」

と言うべきところです。

しかしイエス様はそうなさいませんでした。

それとは全く違う言葉で接したのです。

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「友よ、なんのためにきたのか」
(マタイ26:50)

は、最後までユダに選択の自由を与えている言葉です。

それは、何の目的でここに来たのか、一旦考えるチャンスを与える問いです。

予定通り、「はい、あなたを裏切るために来ました」という選択をすることもできます。

「いや、申し訳ありませんでした」と悔い改めることもできます。

最後の最後までユダに選びの自由を与えるのは、ユダの悔い改めを待っていることであり、彼の愛の真実性を保証するためだったのです。

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ユダほどイエス様から愛された人はいないと思います。

しかし、ユダほど徹底的にイエス・キリストの愛を捨て切った人もいません。

イエス様はユダを赦しておられ、もし心の方向を変えて悔い改めたら、そのまま弟子として受け入れていたことでしょう。

しかしユダは自分を赦せませんでした。

彼の心の王座には最後まで自分が座っていました。

裁きを神にゆだねず、とうとう彼は自分で自分を裁く最後を遂げてしまったのです。

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どんな自分であろうと、キリストの愛は変わりません。

自分を責めることをやめ、キリストの愛をただで受け取る人生を始めて参りましょう。

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