今日のみ言葉【No.1568】(2017年 7月18日)「 全ての始まりは神」
はじめに神は天と地とを創造された。
(創世記1:1)
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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
ノーベル文学賞を受賞した川端康成の名作『雪国』の冒頭の一文です。
読者は一気に白く寒い雪国の世界へ引きこまれます。
さて、聖書の冒頭の一文には何と書かれ、私たちをどんな世界へと招いているのでしょう?
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聖書は、
「はじめに神は天と地とを創造された」
(創世記1:1)
という一句で始まります。
科学技術が発展した日本では「神様っているの?」という存在証明から始めなければなりません。
しかし、聖書では証明抜きの自明の存在として最初に「神」が登場します。
そしてその神は、全てのものの創造主として存在し、全てのものの始まりに関わりを持っておられる御方だと創世記第1章1節は述べています。
「私たちの人生に神は深い関わりを持たれ、起きる全ての事の始まりは神から起こされている」
これが聖書が私たちに与えるメッセージです。
この世界観を通して人生の出来事を見ていく時、「なぜ私にこんなことが起きるのか?」という闇の中を過ぎる時、やがてそこに見えざる神の御手の働きが見えてくるのです。
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私はキリスト教の牧師ですが、長男なので父の仏式の葬儀と真正面に向かい合わなければなりませんでした。
「私はクリスチャンなので異教の習慣に服することはできません。まして牧師ですから仏式の葬儀の喪主などできるはずがありません!」
と強硬に自分の信仰の立場を貫き通す選択もありました。
しかし私にはそれができませんでした。
父は生前、キリスト教式でなく「普通の仏式」で葬儀をしてくれと周りの方々に言い残していたからです。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
(使徒16:31)
との御言葉を頼りにあれだけ伝道したのにこの結果…。
御言葉は嘘だったのか?神はどこにおられるのか?
私は心の中の疑惑を抑えるのに精一杯でした。
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しかしついに私は降参しました。
全ての始まりに神がおられ、このことも神が始められたこと、と、人間の理屈では理解も納得もできないことを信仰によって受け入れたのです。
すると
「愛は、…、不作法をしない」
(第1コリント13:4〜5)
との聖書の言葉が心の中に迫ってきました。
不作法をしないとはテーブルマナーに違反しないということではなく、「形を崩さない」ということです。
つまり、相手が大事にしていることを否定しないでそのまま大事にしてあげることが愛だ、と聖書は示しているのです。
私は父の遺言通りの葬儀をあげることが父への愛なのだと信仰的に受け止めました。
その後、喪主は認知症の母がするということになり、私は実質上の代表者として、兄弟親戚の助けを得て滞りなく葬儀を済ませました。
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あれから七年目の今年は父の七回忌を迎えます。
振り返ると、とてもキリスト教の伝道がしやすくなったことを覚えます。
一般の方々が悩んでいるのと同じ悩みを私も体験できたからです。
寺とのつきあい、費用の問題、墓をどうするか等々、スッと共感でき、その悩みを共有できるので話がしやすくなったのです。
そして最大の収穫は、仏教行事に参加せざるを得ないクリスチャンへのケアができるようになったことです。
こんなにも多くのクリスチャンが、牧師に遠慮して知らせず、時には罪責感を持ちながら、日本で生きる以上どうしても避けて通れない仏教行事を勤めておられたのかということに気付かされたのです。
もちろん、なし崩しのなんでもいいという信仰の堕落に陥ってはいけませんが、私は自分の立場上、どうしてもせざるを得ない仏教との関わりをありのまま話します。
それが皆さんにとってホッとすることのようです。
私の生きている姿が、「隠れ仏式クリスチャン」の方々にとって癒しであり、そうやっても信仰を貫き通せるのだというサンプルとなっているのです。
今になって私は思います。
神はこのことをさせるために私をあの葬儀の中へと導いたのだと。
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全ての始まりは神が握っておられます。
今日直面する出来事でも、「神が始められたのだ」という信仰の目を通して見てみましょう。
いつかそこに神のご計画が見える時がやってくることを信じ、今日の確かな一歩を歩み出して参りましょう。
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