今日のみ言葉【No.1491】(2017年 3月13日) 071 「イエスの水上歩行と弟子たち」(1)

すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
(ヨハネ6:17)

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子どもが小さい時、家族で遊園地に行って、私は何十年か振りに観覧車に乗りました。

何も考えないで乗ったのですが、上っていく途中でだんだん冷や汗が出てきました。

いつの間にか私は高所恐怖症になっていたのです。

てっぺんに来た時、妻と子どもはキャーキャー言って楽しそうに騒いでいますが、私は何をしていたかというと、しっかりと窓枠を掴んで耐えていました。

自分でも「こんなの掴んでいても、落ちる時には一緒に落ちるのだから役に立たないのだ」と頭ではわかっているのですが、感情的にはどうしようもありません。

自分を支える保証のない所にいる時、頼りにならないものをつかみ、怖じ惑う私の姿は、ガリラヤ湖上で嵐に出会った弟子たちの姿と同じです。

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ガリラヤ湖は東西約10km、南北約20kmの大きさで、湖面は海抜より200m下にあります。

地形と気候の関係で時折激しい突風が山から吹き下ろしてきます。

パンの奇跡の後、夕方、弟子たちだけ先に舟に乗って、ガリラヤ湖に漕ぎ出しました。

「夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。」
(ヨハネ6:16-17)

次第に暗くなっていく湖の真ん中に、小さな舟で漕ぎ出していく、という状況を想像して下さい。

まして、一緒に来て下さると思っていたイエス様が舟に乗っておられないことは、どんなにか弟子たちの心に不安を呼び起こしたに違いありません。

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私たちの人生でも、自分が頼みにしていたり、心の拠り所にしていた人がそばにいなくて、不安や恐怖や孤独を経験することがあります。

それはちょうど、揺れ動く水の上にいるようなものです。

確かな土台もなく自分は生きているんだということを、ひしひしと感じる時です。

群衆はこのような場合、自分の要望をかなえてくれる存在として神を求めます。

5000人を5つのパンと2匹の魚で養った奇跡を再びどころか何度でも期待するのです。

しかしそれは往々にして失望に終わります。

神よりも自分のほうを上とし、自分が主人で神を便利なしもべとして使う生き方となるからです。

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一方、弟子たちは、「神がいない」と思う時間を体験させられます。

「すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。」
(ヨハネ6:17)

事態は更に悪くなっていきます。

「その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。」
(ヨハネ6:18)

肝心な時にイエス様はいないのです。

私たちが書いたシナリオ通りの現れ方を神はなさいません。

イエス様ご自身の方から私たちに近づいてこられるのです。

それを信じて待つ時、嵐の中で平安を持つ生き方を私たちは体験していきます。

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私たちが期待する通りの人生はなかなか歩めないものです。

しかし、イエス・キリストは定められた神の時に、ご自分の方から私たちに出会おうとなさいます。

神の時を待つ今日の一日として参りましょう。

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