今日のみ言葉【No.1490】(2017年 3月11日) 070 「5000人の給食」(3)

そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
(ヨハネ6:11)

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一般の人が海に潜れる限界は5m程度。

訓練すれば30mくらいまでは行けますが、まあその辺が限界です。

高い山に行った時、1000mも登れば耳がキーンとして聞こえにくくなります。

2000mでは息苦しさを覚えてもおかしくありません。

地球儀を台所にあるラップでピッタリと覆ったとしたら、私たちはそのラップの更に下のごく限られた部分でしか生存できないのでしょう。

人間が生きていられる範囲とは狭いもので、ごくごく限られて条件下で「生かされている」と言ってもおかしくありません。

人間は自立した完全な存在ではないのです。

聖書はそのことを、人間は神から独立して生きるのではなく神に依存して生きるのだ、と教えています。

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ピリポとアンデレのように、イエス様から問題の解決を求められたら、あなたはどのように対処されるでしょう。

弟子たちの問題に対する対処の仕方で根本的な誤りは、自分の力の範囲内でしか問題解決の可能性を見ないことでした。

ピリポとアンデレでは信仰の大小の違いはあったにしても、共通していることは、神を自分の思っている範囲内に制限しているということです。

ピリポの場合は最初から制限し、神を考えの中に入れていませんでした。

アンデレの場合、からし種ひと粒ほどの信仰はありましたが、「神様が出来ると言っても、これだけではなあ…。せいぜいこのくらいだろう」と、神の力の限界を勝手に定めて、神様を閉じ込めてしまっています。

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私たちに求められていることは、「何でも出来る!」と万能感に満ちあふれて手当り次第に物事に手を付けていくことではありません。

やれるかどうかもわからないのに始めてしまったら、大変な終わり方を迎えてしまうかもしれません。

誰かに尻拭いをさせ、責任を回避し、自分は逃げる一方になってしまうかもしれません。

私たちに求められていることは、神を制限しないで生きていくことです。

それは、神の可能性を信じ、希望を持ちながら、現実の問題の一つ一つに地味なチャレンジをしていくことです。

反対に、神を制限して自分の力でやっていこうとすることは、神に依存することを捨てたアダムとエバの罪でもあります。

二人はエデンの園で、取って食べてはならないと命じられていた「善悪を知る木の実」を食べてしまいました。

これは神の言うことをきかなかった、ということだけではなくて、ヘビ(サタン)のそそのかしに乗ったことでもあるのです。

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」
(創世記3:5)

神のようになれる…、神様みたいになったら神様などいらない…。

つまり、

「神様なしでも、あなたは自分一人で生きていけますよ」

というのがサタンの誘惑の一番のセールスポイントであり、アダムとエバの罪の本質であったわけです。

「神の力や助けがなくても、祈らなくても、聖書を読まなくても、私は私で生きていける」

これが神の御前での大きな罪(的外れ)となるのです。

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人間は本当の意味で自立できない存在です。神抜きで生きることはできないのです。

イエス様はそのことを気づかせて下さいます。

困難に出会った時とは、

「あっ、また自分の力でやろうとしていたな。肩に力入れてやっていたな」

と、あなたが気づくように、イエス様がすぐそばにおられる時です。

イエス様は、私たちが問題を抱えた時に、神にゆだねる事を求めておられます。

「イエスはパンを取り、感謝して」
(ヨハネ6:11)

とはそのことを表しています。

何か問題があったら、自分であれこれ持て余す前に、すぐそれを神様の手にお返しする習慣を身につけた人は本当に幸いです。
 
その時に、あなたなりの神の奇跡を目にするからです。

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イエス・キリストは、神に頼る生き方を教えて下さるお方です。

自分の思いで可能性を排除することなく、地味なチャレンジを繰り返す今日として参りましょう。

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