今日のみ言葉【No.1428】(2016年12月 5日) 049 「ゲッセマネの園でのイエスと弟子たち」(3)

心は熱しているが、肉体が弱いのである
(マルコ14:38)

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心の冷たい人に対して、「あなたは心が冷たい」と100万回言ったとしても、その人の心は暖かくなりません。

愛のない人に対して、

「あなたは愛が乏しい」
「あなたから全然愛を感じない」
「もっと愛する人にならなきゃダメでしょ!」

と言ったとして、その人が愛のある人になるかどうか…。

私たちは、相手の心をますます冷たくさせ、完全に愛のない人に仕立て上げているのを知らないで生きています。

ではどうすればいいのでしょう?

心の冷たい人に対しては、どこかほめるところを見つけて、

「あなたって本当に心の暖かい人だね」

とほめる、つまり、暖かい言葉をかけられることによって、その人は徐々に心のぬくもりを取り戻していくのです。

愛のない人がいたら、

「いや、あなたは本当に愛の人だ」

という愛の言葉をかけられることによって、その人の心の中に、少しずつ愛が積み重ねられていきます。

そのような表面的には全く逆の言葉かけで愛されたのがゲッセマネの園の弟子たちでした。

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ゲッセマネの園の祈りは、十字架刑の直前の出来事です。

十字架の死は、全人類の罪に対する神の罰をイエス様が一身に受ける身代わりの死です。

それは神と切り離されることを意味します。

イエス様は単なる肉体の死を恐れていたのではなく、永遠に神から捨てられる恐ろしさを味わっていたのです。

このような切羽詰まった段階で、仕方なく十字架を選ばされたのではなく、人を愛するあまり、十字架上での死を選んだのでした。

イエス様は自分の死の直前まで、人を愛されました。

それは、祈れずに眠りこけている弟子たちに向けられた次の言葉に表されます。

「心は熱しているが、肉体が弱いのである」
(マルコ14:38)

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彼らの実態は、熱い心ではなく、冷たい心でした。

肉体は頑強でしたが、心は弱いものでした。

しかし、心の弱い人に対して、「あなたは心が弱いね」と何回言っても、その心は強くなりません。

イエス様は

「心は熱しているが、肉体が弱いのである」
(マルコ14:38)

と、弟子たちをかばい通し、愛しとおし、現状とは反対の言葉をかけ続けられたのです。

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イエス・キリストは、最後の最後まで弟子たちを愛されたように、あなたを愛するお方です。

弟子たちは自分のことで精一杯でした。

その彼らを愛されたということは、自分のことで精一杯で人のことまで手が回らない私たちも、間違いなくイエス様から愛されていて、顔を天に向ければ、イエス様と出会うことができるということです。

イエス・キリストからは裁きの言葉は向けられません。

「心は熱しているが、肉体が弱いのである」
(マルコ14:38)

という愛の言葉だけが語られていることを信じ、愛を味わって生きることを通して、私たちも愛の人にさせていただけるのです。

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やっているつもりで、実際はそれと正反対の自分。

その私を、まるごとあるがまま、そっくりそのまま受け入れ、

「その通りだ、よくやっている」

と言って下さり、できないままで放っておかれるのでなく、最後の最後まで、できない私ができるようになるよう、付き合い続けて下さるのがイエス様です。

最後の最後まで変わらずに愛してくださる方と、今日も歩みを共になさいますように…。

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