今日のみ言葉【No.1385】(2016年10月13日) 035 「重い皮膚病にかかった十人の人」(1)
声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
(ルカ17:13)
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差別用語は言い換える時代となりました。
たとえば、「めくら判を押す」は「ろくに見ないで判を押す」、「つんぼ桟敷に置く」は「聞こえないところに置く」等に変え、「めくら、つんぼ」という語は使いません。
現代の聖書の訳もそれにならい、初版で使われていた語が改訂版で別の言葉に置き換えられています。
今日の聖書個所である、ルカによる福音書第7章11節〜19節の「重い皮膚病」は、かつての聖書では「らい病」と書かれていました。
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古代イスラエルでは「らい病」は伝染病と考えられ、患者は隔離された村で生活しなければなりませんでした。
家族から切り離され、一般社会からも遠ざけられた生活が強要されたのです。
そして、遠くに人を見かけただけで、「私は汚れています」と叫ぶ義務を負っていました。
「重い皮膚病の患者は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。」
(レビ記13:45)
イエス様はエルサレムに向かう途中、この人たちの村に入られたようです。
「ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われた」
(ルカ17:12)
彼らは律法の義務に従って、
「遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて」
(ルカ17:12-13)
そして、「汚れた者です」と言うはずでした。
それが今までの習慣であり、しなければならないことであったからです。
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ところが、村に入ってきた人がイエス様だとわかりました。
とたんに彼らの叫び声は
「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」
(ルカ17:13)
に変更されました。
これが彼らにできるたった一つのことだったからです。
社会から隔離され、病が治る見込みのない彼らが抱けるたった一つの希望。
それが、イエス・キリストに叫び声を上げることだったのです。
できることが制限されれば不自由極まりないことは明らかです。
しかし、逆に不自由さは一つのことに集中できる環境にあるということです。
人生の突破口は、時に自由を奪われた中にあります。
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「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」
(ルカ17:13)
あなたは今日、この叫び声を上げられるほど、制限された不自由な生活をしているでしょうか?
それとも、自由を謳歌し、あれもこれもと目移りをしているうちに、いつの間にか秋風が吹いている今日となっているのでしょうか?
神に向かって一つのことに集中し、心を注ぎ出す祈りの日としたいものです。
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