今日のみ言葉【No.1379】(2016年 9月30日) 033 「変貌山でのペテロ、ヤコブ、ヨハネ」(1)
これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。
(ルカ9:28-29)
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「クッキーが割れた!」
小さい子供が泣き出しました。
「たったそれだけのことで?」
と思うような些細な出来事なので、お母さんは
「別のお菓子があるよ」
とやさしく差し出しますが、泣き止むことはありません。
実は、クッキーが惜しかったからではなく、心にたまっていた傷を癒やすために子供は泣くのです。
「もう泣くのはやめなさい!」
と強く叱って泣くのをやめさせても、心の悲しみは残っていますから、なにか次の機会を見つけて子供は感情を発散させようとします。
次回は些細なことで癇癪(かんしゃく)を起こし、感情を爆発させて泣くようにするのかもしれません。
ですから、子育てをする親は、泣いている子供にじっと根気強く付き合い続け、心の傷が癒されるまで待たなければなりません。
根負けして子供が泣き止むまで待たせられた、というのが案外ベストの子育てなのかもしれません。
変貌山での出来事を通し、イエス様は粘り強くそのように関わり続けて下さる御方であると知ることができます。
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変貌山に行く8日前、イエス様がピリポ・カイザリヤでご自分の受難と復活の予告をした時、弟子たちはそれをどう受け止めたでしょう?
ペテロが
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」
(マタイ16:22)
と、先生であるイエス様をいさめたことから分かるように、彼らにあったのは「抵抗」という感情でした。
自己犠牲の道を進む気は無く、イエス様と一緒に受難の道を選ぶ覚悟もない。
苦労は避けたいが、得をするおいしい場面は外したくない。
これが弟子たちの本音であり、どの時代の人間も、クリスチャン・ノンクリスチャンに関係なく、一皮むけば同じです。
この弟子たちを、あきらめて見捨てること無く、成長を信じて最後まで愛し通されるのがイエス・キリストです。
彼らの揺れ動く心に対して、確信を与えようとされたのが変貌山での出来事です。
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ここにイエス様と一緒に、モーセとエリヤが現れました。
モーセはイスラエルの出エジプトを導いた指導者で、旧約の律法の代表者をあらわします。
エリヤは旧約の預言者の代表を意味します。
栄光の中で3人が語り合っていたのは、イエス・キリストのエルサレムでの最後、つまり十字架のことでした。
これによって、イエス・キリストは旧約の流れを引き継ぎ、完成して下さる方であることがわかります。
「み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。」
(ルカ9:29)
とあるのは、イエス様が変身されたということではなく、元の本来の姿になられた、ということです。
こちらのほうが神の子としての通常の姿で、弟子たちが見ていた地上の人間の姿としてのイエス様のほうが「変身」していたということができるでしょう。
信じようと思っても信じられない弟子たちに、確信を据えようとして関わり続けるイエス・キリスト。
この方が、私たちの人生の終わりまでずっと共にいて下さり、つい疑ってしまい、諦めたくなる私たちに関わり続けて下さるのです。
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神の美しい御業を見る一日でありますように…。
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