今日のみ言葉【No.1350】(2016年 8月17日) 023 「長血をわずらっている女」(1)
それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
(マルコ5:28)
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「窮鼠猫を噛む(きゅうそねこをかむ)」という諺があります。
猫に追い詰められて窮地に陥ったネズミが、逆に居直って猫を噛みつきに来ることがあるということです。
このように、強いストレスにさらされると反応は2つ出てきます。
逃げるか、立ち向かうか。
学生時代に、苦手な科目の試験がある前日、勉強しようとすると、妙に机の上を片付けたくなったり、漫画を読みたくなったり、おいしいものを食べたくなるのは、この「逃げ」の方向に向かっている時です。
しかし逃げようがなくなると、
「もうやるしかない!」
と、かのネズミのごとく、勇ましく勉強に邁進した記憶をどなたでも持ち合わせているのではないでしょうか。
マルコ第5章に出てくる「長血をわずらっている女」は、もうどうしようもなくなったところでイエス様に向かって行きました。
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この女の人の病気は婦人病の一種で、出血が止まらない症状が続いていたようです。
このような状態が12年間も続き、治療のために財産もなくなってしまいました。
さらに彼女はその当時、律法の規定によって「汚れた者」とされ、社会的に疎外されるという追い打ち的状況の中にいました。
「女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。」
(レビ記15:25)
どうしようもなくなった時こそ、大胆に行動できる時です。
失うものはもう何もないからです。
そうは言っても、彼女には「自分は汚れた者だ」という意識があったので、堂々と真正面から行くことはできません。
しかし彼女には、
「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。」
(マルコ5:28)
というからし種ほどの小さいながらも命ある信仰がありました。
イエス様に会いたい。会って癒していただきたい。しかし私は汚れた者だから人前に出られない。どうしたらいい?
その心の中のせめぎあいの結果、彼女が取った行動は、群衆の中に紛れ込み、
「うしろから、み衣にさわった」
(マルコ5:27)
というものでした。
これが彼女のできる精一杯の行動であり、信じてできる自分のギリギリの限界の選択だったのです。
神様は私たちをギリギリの状況、強度のストレスの中へ導き入れられるお方のようです。
そこでは何もかもが取り外され、からし種ひと粒ほどの小さな信仰に賭けて飛び込んで行かざるを得ない状況となります。
私たちは追い詰められ、その結果、信じなければできない行動へと導かれていくのです。
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M姉は教会で「証し」(体験談)を依頼されました。
何でも完璧にやろうとする傾向の強い彼女にとって、これはストレスとなりました。
なぜなら、彼女は理想のクリスチャン像とは程遠い自分の本当の姿を知っており、とてもとても「良い証し」「ちゃんとした証し」など出来ないと思ったからです。
ドタキャンすれば他の人に迷惑がかかる、と、きちんとすることが徹底しているM姉でしたので、やめるわけにもいかず、かと言って嘘の作り話をするわけにも行かず、悩んだ彼女はアトピー性皮膚炎が再発するまでに苦しみました。
とうとう最後に、
「しょうがない。これは本当の自分の姿を見せるほかはない」
と覚悟して原稿用紙に向かったら、あれよあれよという間に筆が進み、1日で書き上げてしまいました。
牧師に見せると、
「ありのままでいいですね。でも、内容の1割が恵みで、9割が弱音や嫌な思い出です。本当はあるのに気づいていない恵みを見つけてみませんか?」
と言われ、修正、再修正。
辛い時があったということは、その時を支える御言葉があり、その時暖かく包んでくれた神の家族の愛があったことを思い出しました。
私が味わった試練の数だけ、私は同時に愛されていた。
そのことを彼女は見出したのです。
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神の導きは、追い詰められたところにもあります。
私たちの中から信仰を引き出そうとされる神の御手を今日見ることができますように…。
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