今日のみ言葉【No.1335】(2016年 7月22日) 018 「食事に招いたパリサイ人」(1)
イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。
(ルカ11:37-38)
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私の娘が1歳を過ぎた頃、食事でテーブルに載せたものを全部下に落っことすわざを覚えました。
それがおもしろいのでしょう、「エヘヘ」と喜んでいます。
私の口から出る言葉は、
「ダメでしょ、落っことしちゃ」
ですが、私の家内はさすがに母親ですから違います。
「落っことしたのね」
と言って、一緒に笑っています。
母子一体感と父親の私の疎外感のコントラスト!
その原因は、私が「落っことすのはダメ」という価値観を持っていたからです。
壊すのはダメな子、食べ物を粗末にするのはダメな子、というレッテルを娘に貼っているので、我が子の本当の姿が見えなくなっていたのです。
ありのままの娘の心に触れることができない私は、目の前にいるのに、本当の娘に出会っていないという悲劇を味わっていました。
ルカ福音書第11章のパリサイ人も同じで、先入観や偏見、凝り固まった価値観があり、イエス様のありのままの姿が見えなかった人です。
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「あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。」
(ルカ11:37)
とあります。
現代では、特にインフルエンザ流行のシーズンでは、うがい、手洗いが励行されますし、日本人は世界的にも清潔好きですから、
「ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。」
(ルカ11:38)
という個所で、「そんなの当たり前じゃないの?」と、パリサイ人の方に共感する人がいてもおかしくありません。
しかし、彼らが食事の前に手を洗うのは、衛生面の問題ではなく、宗教的なきよめの儀式の規定に基づくものでした。
外でどんな汚れたものに接触したかわからないので、宗教的なきよめの儀式を必要としたのです。
そのために、こと細かな規定に基づいて汚れをきよめる宗教的作法がありました。
それを決まり通りにしなければ、彼らは食卓に着かなかったのです。
また、それをしないことは、神の目に汚れた者となるとみなされていました。
古代イスラエルでは、儀式、規則、規定、律法を厳密に守ることによって神の国が到来する、救われると考えられていたので、いつの間にかその中身より形式をきちんと行っているかの方に目が行くようになったのです。
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形を壊さずに守ることは大切なことです。
愛の章として有名なコリント人への第1の手紙第13章5節に
「不作法をしない」「礼儀に反することをせず」「礼を失せず」
とありますが、これは原語のギリシャ語では、「形あるものを壊さない」という意味です。
つまり、相手が大事にしているものを、自分が持っている価値観で否定したりせず、相手が大切にしているものをこちらも大切にしてさし上げることが愛だという意味です。
しかし、このパリサイ人の思いや行為は愛から出たものではなく、空虚となってしまった形式をただ重んじているだけでした。
自分を正しいとする価値観がイエス様との出会いを阻害しているとすれば、それは大変残念なことであり、また、私たちが今日イエス・キリストと出会えるかどうかのチェックポイントでもあります。
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出来事のありのままの姿を見て取り、神は何を私に知らせようとしているのか、と思いめぐらす一日として参りましょう。
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