今日のみ言葉【No.1317】(2016年 6月30日) 012 「中風をわずらっている人」(1)
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
(マルコ2:5)
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中風(ちゅうふう、ちゅうぶ)とは、脳出血の後遺症で、手足のしびれやマヒ、半身不随、言語障害などの症状が出ます。
私は子供の頃、手をブルブルさせてお茶をいれるおばあちゃんを見て、「危ないなあ」と思っていたものでしたが、大人になった今、「ああ、あれが中風というものだったのか」とようやく理解出来ました。
周りの家族は、もう治らないもの、とその症状を受け入れ、テーブルの上にこぼしまくるお茶を、「ハイハイ、大丈夫よ」と文句も言わずに雑巾で拭いていました。
病を受け入れることも大事ですが、マルコ2章3-12節に出てくる友人たちは、「いや、この人の場合は違うだろう」と考えて行動した人たちでした。
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彼らは群衆がイエス様を取り囲んで、近くに病人を運ぶことができなかったので、
「イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。」
(マルコ2:4)
という行動に出ました。
目的のためには手段を選ばずという乱暴な態度とまで見える彼らの行動を、イエス様はどうご覧になったでしょう?
イエス様は、彼らの奇抜な発想を見たのでもなく、その行動力に注目し、心動かされたのではありません。
「イエスは彼らの信仰を見て」
(マルコ2:5)
とあります。
彼らはただ単純に「このイエスという人は病人を必ず癒して下さる」と信じていただけです。
その信仰をイエス様はご覧になり、彼らの信仰を通して神の力を働かせ、癒しを起こされたのです。
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アメリカのフラー神学校でこの個所を学んでいた時、教授はこう教えてくれました。
「この中風の者は動くことができなかったのだろう。おそらく言葉も話すことができなかっただろう。もしかしたらこの人自身、治るなどと考えもしていなかったかもしれない。」
「しかし周りの友人たちは治ると信じていた。本人が信じていなくても、周りの人が信じていたから癒しが起きたケースだ。」
「イエス様は信仰がないところでは御業を成すことができないが、本人でなくても、誰かの信仰を通して神の御業をなされるのだよ。」
自分の力では出来なくても、周りの人の力でイエス様と出会うことができます。
誰かが信じている限り、イエス様は働かれるのです。
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できると信じる者を通してイエス様は神の業をなさいます。
信じて一歩、足を先に進める一日として参りましょう。
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