今日のみ言葉【No.1144】(2015年10月 1日)

見よ、わたしがあなたを遠くから救い
(エレミヤ46:27)

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エレミヤ書第46章はエジプトに対する神の預言です。

当時の2大国であったエジプトとバビロンが戦い、エジプトが負けることが預言されています。

当然、小さな国は勝った方の支配下に置かれます。

イスラエルも例外ではなく、第1回目の補囚にダニエルが含まれ、その後の大規模なバビロン捕囚へと歴史は続いていきます。

捕囚は神の懲罰的教育でした。

決してイスラエルを滅ぼし尽くし、この世から無くしてしまうことが目的ではありません。

捕囚によって民が悔い改め、神のもとに立ち返り、正しい道を歩み直すようにという神の願いがそこにはあります。

裁きの後の回復の預言があるのはそのような意味からなのです。

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今日の聖句の

「見よ、わたしがあなたを遠くから救い」
(エレミヤ46:27)

とは、身近な人からの助けはなくて、関係のない赤の他人のほうが意外と助けてくれるものだ、という意味ではありません。

もう誰からも見放され、神様もこんな私を救うことなどなさらないだろうと自分が自分で思うほどの時があります。

自分のみじめさや至らなさ。同じ過ちを繰り返す弱さ。

やり直そうと思う力も失せて、流されるままに送る毎日。

神様もこんな私には手が届かないだろうなあ、と思うほど遠く離れている自分に対して、

「見よ、わたしがあなたを遠くから救い」
(エレミヤ46:27)

との御言葉が投げかけられているのです。

神の御手が届かないところはありません。

神はご自分が選んだイスラエルを見放さないように、神によって見出されたあなたを見捨てることはありません。

「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
(ヘブル3:15)

心をかたくなにして助けを拒否することなく、素直に神の御手にすがりましょう。

人生は「まさか」というところから助けが来るのです。

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私の実家の古い建物を解体工事した時のことです。

長年の積雪の重みで鉄骨が曲がりだし、壁のあちこちにヒビが入り、危険なので取り壊し、ということになったのですが、私の母親にとっては思い出が詰まった建物です。

事前に業者さんからの公式書類に印鑑を自分で押してもらい、了承したはずでしたが、工事初日は相当の抵抗を見せました。

私はキリスト教の牧師です。愛にあふれ、人の過ちなど許すのが当たり前…、のはずですが、親子関係にあってはむき出しの自分が出ます。

とうとう親子喧嘩を始めてしまいました。

しばらく、やんややんやと言い合いをしていましたが、

「おはようございます。回線の点検に参りました。」

と、どこかの電気工事の業者のおじさんがやって来られました。

すかさず私は今までの怒り顔を、営業用の笑顔に変え、

「ありがとうございます。今日はよろしくおねが…」

と言ったところでビックリしました。

なんと作業服姿の教会員のMさんがニコニコした笑顔をこちらに向けているではありませんか!

まさか教会とは無関係のお仕事の場にクリスチャンのMさんが来られるとは…。しかもこの修羅場に!

親子喧嘩は終わりました。

また、自分を責める気持ちも、

「神様はこうやって神の使いを送って下さり、私のことを見えないところで配慮してくださっている。」

と考えることができ、スーッと静まりました。

神はどんな時も見ていて下さり、私の祈りが全部その通りになるわけではありませんが、ツボを押さえた祈りの答がピシリと決まることを実感した時でした。

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今日も神の助けがあることを期待し、一歩々々、勇気を持って踏み出して参りましょう。

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