今日のみ言葉【No.950】(2015年 1月 8日)
わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。
(詩篇120:1)
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「人間は、努力するかぎり迷うものである」
とはゲーテの言葉です。
なるほど、努力をやめてあきらめてしまえば、後は流されるままですから選択の余地がありません。
迷わないで済みます。
しかし努力を続ければ必ずいつか分かれ道に出会い、
「さて、どの道を進もうか?」
と選択を迫られます。
時には進むことをやめ、撤退することも選択肢の内に入るでしょう。
また、
「これしかない」
と選んで進んでも、本当にこれで良かったのかと迷い、さまよいつつ歩むのが人間の現実の姿なのではないでしょうか?
ゲーテの言葉をもうひとつ。
「すべてを今すぐに知ろうとは無理なこと。雪がとければ見えてくる。」
私たちの努力の結果が明らかになるのは、相当の時間をかけてからです。
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今日の聖句は、その人間の時間を一瞬にして飛び越えています。
「わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。」
(詩篇120:1)
本当でしょうか?
詩篇第120篇のその先を読んでいくと、とてもとても神様に祈ると一瞬にして答えが与えられ、問題がすぐ解決したという状況には見えません。
詩篇の記者は、非難と中傷の中にあり、温暖なエルサレムから遠い北方に住み、しかも争いを好む人たちが周囲にいる現実の中で生活しています。
しかし彼は、
「わたしが悩みのうちに、主に呼ばわると、主はわたしに答えられる。」
(詩篇120:1)
と信仰の宣言をしています。
彼は、目に見えるもの全てが雪と氷に閉ざされた世界であっても、春になった後の地表を見ているのです。
真冬に春を先取りして生きること。
これが信仰の世界の生き方です。
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Eさんは古参のクリスチャンです。
若い時に洗礼を受け、営業職についた昭和30年代。先輩たちから随分いじめられたそうです。
「E君、うちわの注文取って来なさい。」
と命ぜられたのが新年早々。
1月の真冬の米沢は猛吹雪の日々です。
夏に使う「うちわ」の注文など取れるはずがありません。
しかしEさんは「なにくそ!」と思い、これを信仰の訓練として、吹雪の中、得意先周りを始めました。
「あの〜、夏のうちわ、必要ではありませんか?」
と切りだすと、お客様は皆一様に
「はぁ?」
という反応で、誰も話に乗ってくれる人はいませんでした。
しかし、Eさんの熱意が通じて、あるお客様から最初の注文をいただいた時には、本当に嬉しかったそうです。
老年になってからのEさんは励ましの人でした。
私も何回となく
「丸山君、大丈夫だ!」
と声をかけていただきました。
私は内心、
「私のことなんかなんにも知らないはずなのに、何を根拠にこの人は大丈夫だと言っているのだろう。」
と思っていましたが、あれはEさんの信仰の体験から出た信仰の言葉だったのです。
真冬に春どころか夏を先取りした「うちわの信仰」です。
全く答が見えない時に、
「主はわたしに答えられる」
と宣言し、信じ、その結果を得ていく人生が私たちには与えられてあるのです。
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呼べば答える神がおられることを信じ、今日も信仰の一歩を踏み出して参りましょう。
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