今日のみ言葉【No.927】(2014年10月30日)

光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。
(詩篇97:11)

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詩篇第97篇は、バビロン補囚から帰還したことを喜び賛美する歌です。

70年間も捕虜となっていた民族が母国に帰って国を再建できるなどとは、いかに優秀な人が考えても全く不可能なことです。

しかしそれは実際に成就したのです。

イスラエルの民が故国に帰れるように努力したからではありません。

異国であるバビロニアの都市バビロンで、先祖たちが犯した罪を認め受け入れた結果です。

そして、

「神から見捨てられたから、このままここに居ざるを得ない…」

のではなく、どこにいても神はいらっしゃると悔い改め、

「神は私を見捨てず、今ここで共におられる。」

という新たな信仰に目覚めたからです。

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神の前に自分は罪人であると認めることが、神の前での義しさ(ただしさ)です。

「自分は本当にダメだな〜」

と、自己卑下ではなく、罪人である自分をすんなりと受け入れられたら、十字架のイエス・キリストはあなたのすぐそばにおられます。

その場で神の義があなたに与えられ、キリストの力と愛があなたを通して周りに流れていきます。

まさに

「光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。」
(詩篇97:11)

の御言葉が成就するのです。

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Kさんは愛と親切にあふれた方です。

彼女を慕って相談に来られる方が後を絶ちません。

多くの人が解決のヒントを得、嬉々として自分の生活の場に戻っていくのに、一人だけグジュグジュと彼女から離れない人がいました。

その人をケアするのに、徐々にKさんの負担が増してきました。

「またですか…」

「面倒くさいなあ…」

それは、経済的にも時間的にも愛においても、

「自分のもの」

が削り取られていく感覚でした。

とうとうその人が疎ましく感ぜられ、

「いい加減にしてよ!」

という声が喉元まで出かかる自分を発見し、彼女は愕然としました。

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もしそこで

「いい人」

をやり続けていたら、彼女は破滅していたでしょう。

しかしその時、

「私、やさしくないんだ…」

と思うことが出来たのです。

つまり、やさしくない私を

「ダメなもの」

として覆い隠し、むしろ逆に

「愛にあふれる善意の人」

を装おうとはしなかったのです。

これこそ自己受容の見本です。

「やさしくない私」

という本来あってはいけないはずの自分を認め、それを素直に受け入れている姿です。

神の前での罪人たる自分を認めるとはこのようなことです。

そのような自分を知り、認め、ゆるしていると、その自己受容度に応じて人はKさんの中に

「癒し」

を見つけていくのです。

多くの人たちが彼女を通して癒されていくのはそのような理由からだったのでしょう。

優しくない自分を引き連れて、

「その私、ここにいてもいいよ」

と側に置いて人と接していけば、あとはイエス様があなたを通して人の心に触れて下さり、癒しを与えてくださるのです。

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キリストの十字架のゆるしを信じるということは、ありのままの私を自分でもゆるし、

「その私、ここにいてもいいよ」

と自分を受け入れて生きることです。

それこそ神が「正しい」とされる生き方です。

光と喜びがあなたから現れてくる一日として今日を大切に生きて参りましょう。

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