今日のみ言葉【No.843】(2014年 6月 9日)

主よ、いつまでなのですか。
(詩篇13:1)

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詩篇第14篇の特徴は、

「いつまで」

という言葉が4回も使われていることです。

詩篇の記者は、それだけ神を待ち望んでいながら、思うような結果にならない状態に置かれていました。

榎本保郎牧師は『旧約聖書一日一章』の中でこの個所をこう解説しています。

「神に仕え、寄り頼み、み言葉に従って生活している自分に、一向にそういった者にふさわしいと思われる結果があらわれてこない。信じたからどうなったということがいつまでも起こってこないことがある。」

「かえって神に仕えるのでなく神を仕えさせているような自己中心の生き方をしている者が、いかにも信仰深そうに見えることがある。そして、あの人のような信仰が本当の信仰ではないかというようなことさえ言われて心が動転してしまう。」

神は沈黙し、自分に対抗する敵の方が

「わたしの上にあがめられる」

という状態が詩篇第14篇に描かれています。

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どうやら神を信じて生きる人生とは、聞かれない祈りの連続を生きることのようです。

そしてそれは、聞かれない祈りの中に神の御声を聞く連続の日々へと導かれていくようです。

新約聖書のパウロがそうでした。

彼には持病があり、

「わたしの肉体に一つのとげが与えられた。」
(第2コリント12:7)

と表現しています。

この病のおかげで伝道が妨げられている、と感じた彼は、

「離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」
(第2コリント12:8)

とあります。

正当な祈りです。

しかし癒されません。

パウロは何度祈っても癒されないこの持病は、

「高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」

と示されました。

そして神の声を聞くのです。

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」
(第2コリント12:9)

苦難が解決されない中にあって、そこに神の祝福を見出していく。

つまり、苦しみが取り除かれたら神の祝福が来た、取り除かれないなら神の祝福は来ていない、という二元的考え方ではなく、苦難の有無にかかわらず、神の祝福は注がれているという一元的信仰の見方に目が開かれることです。

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ここが腑に落ちたら、信仰の幼稚園から小学校に上がったようなものです。

詩篇第14篇は4節までの絶望感が、5節〜6節では何の理由もなく喜びと賛美に変わっています。

「しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、わたしの心はあなたの救を喜びます。」

「主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。」

苦難の中に生きて働いておられる主を認める時、私たちは未来の祝福の先取りをすることができるのです。

どこにいても神はおられる。

この信仰が私たちの唇に賛美を授けます。

思ったとおりになった時だけ賛美を捧げる唇から、自分の思ったとおりにならない時でも賛美を捧げる唇へと変えていただきましょう。

神はその祈りは必ず聞き届けて下さいます。

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「主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、わたしは主にむかって歌います。」
(詩篇13:6)

この賛美を捧げさせていただく一日として参りましょう。

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Posted by wp2016_toko