今日のみ言葉【No.3629】(2025年 5月13日)「癒やされた重い皮膚病の人たち(4)」
そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
(ルカ17:15-16)
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「この人は、99%の確率で洗礼を受けようとしている」
そう感じるときがあります。
それは、その人が「献金」や「お墓」について質問してきたときです。
その人の内なる思いが、質問という形で表に現れたのです。
人が本当はどのように思っているかは、外に現れ出た行動でわかります。
癒やされた後の10人の行動は、どうだったでしょうか。
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病気全快という恵みは10人全員が受けました。
しかし、その後の10人の行動は、以下のように分かれたことが記されています。
「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった」
(ルカ17:15-16)
1人はサマリヤ人で、残り9人はユダヤ人であったと考えられます。
サマリヤ人は、祭司に自分の体を見せに行くのを中断して、イエス様のもとに戻り、神を賛美し、イエス様に癒しの感謝を述べに帰ってきました。
他の9人のユダヤ人は、祭司に体を見せ、自分たちが元の社会生活に戻れる保証を得る方を優先させました。
彼らは、祭司とイエス様を天秤にかけ、祭司の方を選んだのです。
つまり、イエス様の方を軽く考えたということです。
このことから推測できるのは、ユダヤ人たちはイエス様を、聖書に預言されていた救い主(メシア)とは信じていなかったということです。
そのため、癒しは全員が受けられましたが、魂の救いに関していえば、それを得たのはサマリヤ人ひとりだけでした。
10人とも、「癒やされる」という信仰をもって、まだ何も起きていない段階で、イエス様の言葉に従い出発しました。
しかし、9人には「イエス様は救い主である」という信仰がなかったため、それを行動として表すことができませんでした。
一方でサマリヤ人は、「イエス様は救い主である」という信仰を持っていたため、祭司に向かうことを最優先とせず、イエス様に感謝を伝えるために戻ることを選びました。
この行動こそが、彼の内にある信仰を表していたのです。
信仰によって救われるとはこういうことであり、信仰と行為の関係は、この話からよく理解できるようになります。
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あなたの思いが行動となって表れます。
救われた感謝を行動で表す信仰生活を送って参りましょう。
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