今日のみ言葉【No.3334】(2024年 4月12日)「火を地上に投じる(2)」

しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
(ルカ12:50)

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火に関して、プラスのイメージとマイナスのイメージがあります。

まずプラスとしては、火によって暖を取り、料理に使い、また暖炉の火を見るだけで心が安らいだりする癒やしの効果があります。

しかし、マイナスとしては、火事や火山の噴火等、災害時の火の恐ろしさがあります。

クリスチャンの方では聖霊の火というイメージを持つ人がおられるでしょう。

聖書を最初に読む時、私たちは自分が持っているイメージを投影して理解しようとします。

しかし、正確にその箇所の意味を読み取るためには、やはり文脈という流れを把握して読まなければなりません。

ここでの「火」の意味は、次に続く聖書箇所によって特定されます。

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今日の聖句で、イエス様は、

「わたしには受けねばならないバプテスマがある」
(ルカ12:50)

と言っておられます。

イエス様はすでにヨハネからバプテスマを受け、公生涯を開始されています。

それなのに、またバプテスマを受けるとはどういうことでしょうか?

これは実際に洗礼を受けるということではなく、たとえです。

それは、

「それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」
(ルカ12:50)

ということなので、十字架の受難を言っておられるのだとわかります。

このことから、前節の

「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」
(ルカ12:49)

にある「火」とは罪のきよめであり、そなわちそれは「神の裁き」が下ることだとわかります。

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この世には罪が蔓延しており、神の義は通っていない状態です。

「火がすでに燃えていたなら」

とは、神の裁きが下され、神の義が通り、御心が地に行われているなら、ということです。

それをイエス様は、

「どんなに願っていることか」

と言っておられます。

しかし、現実はそうなっていないので、人類の罪を処理するため、

「火(裁き)を地上に投じるため」

にイエス様は来られたのです。

ただし、それは、「裁き主」としてイエス様が来られたのではなく、人類にその罪の責任を負わせず、ご自分がすべての罪を負い、神の裁きを真正面から受けることによって裁きを完成させる、ということです。

そのことを、イエス様は

「受けねばならないバプテスマ」

と表現なさいました。

それは神の子であってもあまりにも過酷なわざなので、

「わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」

と、本心を語っておられるのです。

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イエス様の受難によってクリスチャンの平安があることを思いめぐらす今日として参りましょう。

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