今日のみ言葉【No.462】(2012年12月 8日)
またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。
(黙示録15:2)
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今回は榎本保郎牧師の『新約聖書一日一章』からの解説をお届けします。
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これはモーセが紅海にさしかかったときのことを想像しているのであろう。
イスラエルの人々は、エジプトを脱出して紅海にさしかかったが、前は海、うしろはエジプトの精鋭に追われるという、進退きわまった状態に追い込まれた。
それが神の災害である。
イスラエルの人々が出会った紅海での苦難は、それによって彼らが訓練を受けるとか、信仰が鍛錬されるとかいうようなものではなく、彼らが全くだめになってしまうほどのものであった。
いったいどのようにしてのがれたらよいのか、そこでは彼らの信仰がためされたのである。
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飛行機は離陸のときがいちばん力の要るときだと思う。
イスラエルの人たちも神の言葉に従ってエジプトを離陸したときが、いちばん大きな試みを受けたときだと思う。
言うならば、さまざまな欲望を持っていた人間が、それらをいっさい断ち切って神の言葉に従っていく始めというものが大事なのである。
そういう海を通ってはじめて、神の立琴を手にして立っているのを見ることができる。
すなわち神を讃美する世界が生まれてくる。
ひるがえって私たちの信仰生活になぜそのような喜びがないのか。
それは私たちがこの火の試練を避け、またそこまで至ろうとしないからである。
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神の言葉に従って大胆にエジプトを出ていけば、今も神は海を二つに分けてくださり、荒野にマナを降らせ、あるいは岩から水を出してくださる。
私たちにとってほんとうに大きな喜びは、今日においても神の立琴を手にして立つことができるということである。
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