今日のみ言葉【No.423】(2012年10月13日)
彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
(ヘブル10:14)
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私がクリスチャンになる前、聖書の学びをしていた時、どうしても離れなかった思いがあります。
それは、
「何だかウソくさいなー」
「こじつけじゃないの?」
というものでした。
学びですからどうしても神学的要素があります。
神学とは
「信じたことを論理的に説明したもの」
ですから、信じているクリスチャンなら、
「ああ、なるほど、その通りだ」
となりますが、まだ信じていない人にとって、神学的説明だけでキリストを信じようとしても無理があります。
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信仰の世界は、頭で納得できる部分もありますが、肝心の
「イエスを救い主として信じていこう」
という決断の部分は論理では進みません。
論理を飛躍した何かがあって信じるのです。
つまり、
「自分が信じた」
のではなく、
「信じさせていただいた」
と考えると、その辺の事情が分かってきます。
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今日の聖句も同じように、自分で自分をきよめたのではなく、キリストによって
「きよめられた」
という部分がポイントです。
自分の力や修行によって一時的にはきよくなれるでしょう。
しかし、生きていればやがてまた汚れがつくことになります。
キリスト教のきよめは、「きよい」と「きよくない」の境界線が十字架によって取り払われたことを意味します。
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たとえば、あるラインがあり、その線より上はきよい、下はきよくない、としましょう。
あなたはラインの下の方にいます。きよくないのです。
頑張ってきよくなれる時はありますが、またストンと下に下がって、相変わらずのきよくない自分に戻ります。
長年頑張ってきましたが、いつもこの繰り返しです。
どうしましょう?もうどうにもならない?あきらめが肝心なのでしょうか?
するとそこに神様がやってきて、ラインを消し始められました。
あなたが神様に
「何をしておられるのですか?」
と尋ねると、神様は
「あなたはキリストの十字架を信じたから、無罪。きよめられていて、いつでもきよい状態にある者として認められている。だからもうこのラインは必要ないんだよ。」
と答えられました。
あなたの今の状態がどうあれ、過去と今が全く変わらなくとも、神の目は十字架を通してあなたを見るので、罪無し、と認められ、そのように扱われます。
これが
「きよめられた」
ということです。
あなた自身が、スカッとした思いになれればきよめられたことになる、というのではありません。
気分とは関係なく、きよめられている、と受け取ることが信仰なのです。
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感情とは関係なく、神の前できよめられている自分を認め、感謝して生きて参りましょう。
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