今日のみ言葉(2011年8月17日)【No.147】
「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかっ
たら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。」
(ヤコブ2:14)
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今日のような聖句を読むと、すぐさま良い行いをしなければならないと駆り立てられる人
がいます。
その時はできても、付け焼き刃的な行動ですから継続的には進みません。
そのような自分に対して「私の信仰は本物でない」と責めても、何も実を結びません。
良い行いをしないこのままの姿で信じるだけで救われる、という恵みの中で行動は自ずと
生まれてくるのです。
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心の中の思いは必ず外に行動となって現れます。
例えば、A君がB子さんに好意を持っているとすると、彼の視線はそれとなく彼女の方に
チラチラと向けられます。
逆にB子さんはC男君が好きだと、そちらの方に顔が向き、A君の方向に向くことは稀に
なります。
洗礼も同じです。洗礼を受けてクリスチャンになるのではありません。
心にイエス・キリストを救い主として信じ、それを表に行動として表すことが洗礼です。
ですから、内側が充実し、それが外側に行動として表されるのです。
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とは言っても、なかなか心の中の思いが外側の行動へ結びつかないと思う人もいらっしゃ
るでしょう。
「卒啄の機」(そったくのき)という言葉があります。
卒とは、雛が卵の内側から殻を破ろうとすることです。
啄とは、親鳥が外側から卵の殻をつっついて雛を助けることです。
元々は禅の言葉で、弟子が悟りを開こうとするその時に師が折にかなった教示をすること
だそうです。
雛がまだ成長していない時、親鳥は外から殻を突っついて破ることはしません。
じっと中の雛の成長を待ち、内側からコツンコツンとつつく音を待っているのです。
雛としてのクリスチャンが内側からつつく音とは、祈りです。
「神様、私の僅かな力ですが、お用い下さい」
という祈りを捧げる時、神様は私たちの殻を破る一突きを与えて下さるのです。
行為はその時から、泉がこんこんと湧き出るように流れていきます。
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神はあなたを見守っていらっしゃいます。祈りつつ歩む一日として参りましょう。
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