今日のみ言葉(2011年8月20日)【No.150】
「キリストは彼のためにも、死なれたのである。」
(ローマ14:15)
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日本ではお盆にお墓参りをします。お供え物を持って行くのが通例です。
子供の時、「お供え物として置いてきたまんじゅうやトマトは誰が食べるのだろう?お坊
さんだろうか?」と不思議に思ったことがあります。
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ローマ人への手紙を書いたパウロの時代には、供え物として偶像に肉を捧げました。
その後この肉は市場に出回り、食用とされたのですが、一部のクリスチャンたちは「偶像
に捧げられた汚れた肉」と考えました。
パウロは、「偶像に捧げられたからと言っても、肉は肉であって何の変化もないのだから
食べて差し支えない」と確信していました。
しかし彼は食べようとはしませんでした。
肉を食べる事がもし誰かの信仰の妨げになるのなら、その人のために自分の自由を制限す
る、ということです。
これは愛による行為です。当然行使して良い自由を、あえて制限するという愛です。
なぜなら、
「キリストは彼のためにも、死なれた」
からです。
キリストが命を捨ててまで救って下さった魂が、
「あの人は汚れたものを平気で食べている。信じられない。私は信仰がわからなくなりま
した。」
と言って教会を去り、救いから遠ざかるようなことがあってはならない、とパウロは考え
たのです。
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クリスチャンが自分を鍛錬するのは、この愛を土台としていなければなりません。
決まりや義務や世間体で修行めいたことをするのではありません。
その人に対する愛ゆえに、あえて不自由さの中に飛び込んでいくことができるのです。
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「 だれかひとりの人のために 」
佐藤初女
もしも わたしがひとりの友の
心の痛みを 癒せたら
もしも わたしがひとりの友の
生きる苦痛を 救えたら
ひとりの人の 憂い迷いを
心の安らぎに 導けたら
弱った小鳥を そっと両手に捧げて
その巣に返した時のように
わたしの生きる喜びとなる
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わたしのために死なれたキリストの愛を心に思う一日として参りましょう。
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