今日のみ言葉【No.1828】(2018年 9月 5日)「 神の祝福を受けるための訓練『仏教行事(2)』」
否、むしろ主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる。
(イザヤ28:11)
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子供の頃から仲の良いいとこ同士でしたが、人生の終盤で行く道は大きく変わりました。
Aさんはクリスチャンとなり、Bさんは寺の坊さんとなっていました。
Aさんが先に召され、教会で葬儀ということになったのですが、いとこのBさんは寺の住職ですからどういう形で出席されるのだろうと周りの方が心配していました。
さて告別式当日、Bさんは黒の喪服ではなく、誰もが「ああ、あの方は寺の僧だ」とわかる出で立ちで、しかし配慮してくださったのでしょう、簡素な装束で教会に来られました。
式は進み、最後の献花の際、前に出たBさんに人々の目が集まりました。
すると、手に持った数珠をじゃらんと一鳴きさせ、
「南無阿弥陀仏」
と一言。
見事でした。
義理で「アーメン」と言われるより、よほどスッキリした感じがし、まるで一陣の涼風が会堂の中を吹き抜けたような感覚でした。
「行(ぎょう)を積むとこうなるのか!」
私にとっては自分自身と照らし合わせ、大いに学ばされた時でした。
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神はあらゆるものを通して私たちに語られます。
大自然を通して、聖書を通して、そして同じ聖霊を内に宿すクリスチャンを通して語られます。
しかし、神はクリスチャンでない人を通しても語られます。
聖書を見ると、神は敵を通してメッセージを届け、ある時には祝福を与え、また別の時には裁きを下されました。
たとえば、神はバビロン捕囚からイスラエルの民を解放する時、全くの異邦人であるペルシャ王クロスの心を感動させ、彼をお用いになられました。
「主はさきにエレミヤの口によって伝えられた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの心を感動された」
(エズラ1:1)
また、不信のイスラエルに対しては大国アッスリヤの侵入を許し、イスラエルを打つ裁きの鞭として用いました。
「ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ」
(イザヤ10:5)
主の言葉を聞こうとしないイスラエルの民に対して、神はこう語られます。
「否、むしろ主は異国のくちびると、異国の舌とをもってこの民に語られる」
(イザヤ28:11)
自分とは考え方も価値観も違う人たちと共存しながら生きていかなければならないのが今の日本の現実です。
どなたをも神が造られた価値ある存在と見、尊敬の念を持って接し、どこから神のメッセージが来ても受け取れるように謙遜に仕えて学ぶ姿勢。
これが神の訓練を望むあなたに対して求められている生き方です。
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そういう意味で仏教式の葬儀の場は最高の神の学校です。
何がしかの形で仏式葬儀に関わらなければならない立場になったら、
「何でも言いつけて下さい。微力ながらお手伝いさせていただきます」
と、自分から進んで下僕となり、参列者やご遺族の方々にお仕えする縁の下の力持ちとして働かせていただくと良いのです。
雨の中の外の案内役、運搬の力仕事、必要なものを買い出しに行くお使い係等々、そのようなことをして初めてお仲間に加えていただけます。
つまり、雑談ができるのです。
その中で出てくる葬儀の舞台裏の話や、本音を耳にし、学び、そして悲しみの中で苦労しておられるご遺族を少しでもいたわるのがあなたの役目なのです。
異教習慣だ、などと敬遠していてはいけません。
霊の戦いの主戦場はそんな入り口にあるのではありません。
その先の、ずっと進んだ所で人の心に触れる機会があり、そこで人の魂にキリストの福音をお伝えすることができるのです。
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あらゆることを通して学ばせていただく今日として参りましょう。
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※御言葉メールのスケジュールは、
・月曜と木曜…初級(入門講座)
・火曜と金曜…中級(マルコ福音書講解)
・水曜と土曜…上級(信仰生活の訓練)
となっております。
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