今日のみ言葉【No.1791】(2018年 7月 2日)「 イエス・キリスト(1)」
天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
(マタイ7:11)
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ゲームをしない大人にとって、ゲームに没頭する若者は宇宙人のように見えます。
彼らと会話ができるヒントがあります。それは
「これはどういう世界観なのですか?」
という質問をすることです。
すると、ほとんどの場合、丁寧に説明してくれます。
ただし、あなたがそれを理解できるかどうかは保証しません。
確固とした世界観のもとでゲームというものは作られ、その中で様々なドラマが発生しているのです。
キリスト教で重大なのは、神観というものです。
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イエス・キリストの教えは、神観・神の国・永遠の生命の3つに要約されます。
イエス様は当時のユダヤ人の神観に大転換を施しました。
それは神を
「天にいますあなたがたの父」
(マタイ7:11)
と教えたことです。
それまでの旧約聖書中の神は、聖なる神であり、罪ある者を寄せつけず、裁きを下す恐れ多くて近寄りがたい存在でした。
とても神を「父」と呼べるほどの身近な存在ではありません。
例えて言えば、江戸時代、将軍を「上様(うえさま)」と呼び、下級侍や一般庶民など頭を上げて見ることさえできないような、あのようなイメージです。
それがある日、一転して、
「余はそなたの父じゃ。探しておったぞ」
と下町の長屋に迎えに来られたとしたらどうでしょうか。
それはまさに世の中がひっくり返るほどの大転換なのです。
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父とは子に対して必要なものを与える供給者です。
ですから先ほどの聖句は
「求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」
(マタイ7:11)
と続きます。
神は父であるがゆえに、良きもの、すなわち救いを与えて下さいます。
そのためにイエス・キリストを世に遣わし、人間の罪の身代わりとして十字架につけ、罪の代価を支払われました。
ここに神の愛があります。
このゆえに、人間はイエス・キリストによる罪の赦しを信じるということを通して、神を「天の父」と呼ぶことができるようになったのです。
この神観のもとで生きる人生は、常に良いものが与えられるという期待感にあふれた日々となります。
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ただし、人間が思い描く「良いもの」と神がお考えになる真の意味での「良いもの」とは違っていることが往々にしてあります。
それは人の目からすると「思わぬ出来事」として起こります。
多くは問題や厄介なチャレンジとして現れ、
「神様はいつになったらその『良いもの』を与えてくださるのか…」
とため息をつきたくなります。
神観を変えたとしても、問題を全てプラスに取ることには無理があります。
しかしそれと同様に、問題を全てマイナス一色に塗りつぶすこともおかしなことです。
現実は、問題と見える背後に神様の贈り物が隠されているのです。
カニの甲羅は食べられませんが、その裏にあるおいしいカニ味噌は残さず食べる。
これが神を父として仰ぎ見て生きる生き方です。
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先週末、私の車の冷房が急に効かなくなりました。
エアコンのガスが無くなったからかと思って、行きつけのガソリンスタンドで無料の検査をしてもらったところ、
「コンプレッサーが動いてません。これはうちではちょっと…」
というお返事。
私は35度の猛暑日の中を、窓全開で走ることとなりました。
(今日修理の予定。ご安心を)
「神様、一体これはどういうことですか!」
と不平の一つや二つは言いたくなります。
しかし、言ったとしても何も始まりません。
暑さという問題は変わりなくつきまとうのです。
しかし、その中に神様からの「良いもの」があります。
周りを見ると、走行中の全車両が窓を閉め、エアコンを効かせて涼しいドライブをしています。
これはチャンス、と、私は全開の窓から入る熱風を浴びながら、山下達郎のサマーソングを大音量でかけながら走りました。
誰もうるさいとは感じないので(他車の窓は全閉だから)、迷惑行為とはなりません。
ハタチの頃、したくてもできなかったことを、40年後の今、未完の行為を果たすことができたのです。
音楽で得られる涼しさを満喫し、快適なドライブを与えてくださった神に感謝しました。
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神は良いものを与えて下さる御方です。
その神を「私のお父さん」と意識して生きる今日として参りましょう。
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