今日のみ言葉【No.1695】(2018年 1月27日)「 神様から届くギフト」
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。
(エペソ2:8)
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私は洗礼を受けようと決心して、一度挫折しかけたことがあります。
それは外部からの迫害によってではなく、洗礼志願者の心得なるものを目にした時です。
教会員になるのですから、それなりの務めがあります。
もちろんそれは感謝の応答としての自発的なものです。
しかしそれが、
「祈りつつ一生涯を信仰に生き抜き、伝道に力を尽くし」
という具体的表現になると、こんな不安定な自分にそんなことができるだろうかと不安になってきました。
ところが、最後の一文で救われ、洗礼を受けることができると思いました。
「洗礼後のことは主の恵みにより、実行できます」
信仰とは自力で獲得するものではなく、神の恵みによって与えられたものなのです。
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キリスト教信仰は、知識や御言葉への信頼と従順など、様々な要素によって成り立ちますが、それらは分析した結果に過ぎません。
私たちの肉体が、タンパク質や脂肪、ミネラル等の物質でできていると言っても、それらを寄せ集めただけでは生きた人間にはなりません。
そこに神の霊の働きがあって人間という生命体が誕生するのです。
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」
(創世記2:7)
それと同様に、人間的要素は必要ですが、基本的に信仰とは神の恵みによって与えられた賜物です。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」
(エペソ2:8)
この基本部分をしっかり押さえていると、信仰が揺らいでも、また落ち着きを取り戻します。
それは、
「これは自分の力ではどうしようもない」
というところにストンと落ちた時です。
「賜物とはギフトであり、自分が信じているのではなく、神様によって信じさせていただいているのだから、恵みによってまた信じる心が与えられる」
という思いに至るのです。
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自分がジタバタした時は、
「神の恵みによって今の私があるのだ」
と思い起こしましょう。
そして、
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」
(ピリピ4:6)
の御言葉通りのことをやってみましょう。
するとどうなるでしょうか?
聖書はこう約束しています。
「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」
(ピリピ4:7)
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神の平安に包まれる一日となりますように…。
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