今日のみ言葉【No.1546】(2017年 6月17日) 086 「イエスの着物を分けた兵士たち」(3)

さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。
(ヨハネ19:25)

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ロサンゼルスのある地域には、低所得者層のメキシコ移民の人たちが一日中立っている場所があります。

日雇いの仕事を求めて朝から集まっているのです。

私がそこを通った時は午後2時でしたが、まだ100人以上の男たちが立っていました。

たまに昼過ぎからの仕事募集のトラックが来ることもあるので、そのかすかな希望に賭けているからなのだそうです。

彼らが一旦仕事を得れば、浮かない顔つきが一転して輝きに満ちるでしょう。

十字架の周りでたたずんでいた4人の女性たちも、やがて動きまわる未来が暗示されていました。

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イエス様が捕らえられた後、弟子たちは皆逃げ去っていました。

男で十字架のそばにいたのは、ヨハネとアリマタヤのヨセフの二人だけだったようです。

女性はもっといて、特に4名の名前が今日の聖句に示されています。

屈強なローマ兵の前では、男であっても何もできはしません。

まして女性ならその力は無力と言って等しいほどです。

「たたずんでいた」という言葉でしか表現できない状況だったのです。

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しかし聖書はその先の全く違った未来を暗示しています。

ギリシャ語の文法解釈になりますが、実はこの「たたずんでいた」という語の時制には大完了形が使われています。

これは、「過去はそうであったが現在はその状態にない」というニュアンスを含みます。

つまり、4名の女たちは十字架のもとでなすすべなく立って見守っているしかなかったが、今はそうではない、ということを指し示しているのです。

彼女らは確かに十字架のもとで静止していました。

しかし、その後の復活のキリストに出会うことにより、動き出し、駆け出したのです。

「マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した」
(ヨハネ20:18)

ヨハネが記した大完了形の「たたずんでいた」は、現在はあの立ったままで何もできなかった状態ではありませんよ、ということを伝えているのです。

神は私たちがたたずんでいて何もできないと思い込んでいる時でも、すでにその時から動き回っている未来を見ていらっしゃるのです。

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先週、この御言葉メールの初期の記事をまとめた本『365日 生きていていい!』が発売されました。

先行予約で500冊。その内の300冊がサイン入りのご注文でしたので、私は一生懸命書かせていただきました。

この一連の作業を滞りなく進めるために中心的役割を果たしてくれたのがM兄でした。

予約受付のための態勢作り、荷物の運搬、本の納品から発送までの段取り等、彼の働きがなければまだ皆様のお手元に届いていなかったかもしれません。

実はM兄は引きこもりの過去を持っています。

家で引きこもり、再起を賭けてチャレンジしてやって来た教会の寮でも引きこもり、全く動けない状態だったのです。

しかし彼が「たたずんでいた」時、すでに今回の本の発送で動き回る未来が内包されていたのです。

神との出会いによって、ひと粒の種が芽を出し、花が咲き、そして実が結ばれる未来は確かに存在するのです。

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たたずんでいるしかできない時はあるものです。

しかし、「そんな時があなたにあったなんて信じられません!」と人から言われる時が未来に確かに用意されています。

その時があるのだと信じ、キリストとの出会いに心をとめる今日として参りましょう。

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