今日のみ言葉【No.1545】(2017年 6月16日) 086 「イエスの着物を分けた兵士たち」(2)

これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。
(ヨハネ19:24)

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不登校のご相談を受けた時、初回に私が必ず渡す「緊急の処方箋」なるものがあります。

「お父さん、お母さん、この二つの言葉だけはお子さんに対して禁句です。絶対に言わないで下さいね」

と申し上げる時に、

「あ、はい、そうします」

と元気よく返事をされる親御さんは頼もしそうに見えますが、実は自分のこともお子さんのこともまだ十分に理解していないので、この後必ずその禁句を言ってしまいます。

ですから私は「きっともう一度ご相談にいらっしゃるだろうな」と先を見て準備します。

まず間違いなく次回は言われたのにそう出来なかった親御さんの心のケアとなります。

その過程で、学校に行こうと思うのに行けない子どもの気持ちとはこういうものか、とお子さんの気持ちの理解へと進んでいきます。

カウンセラーがある程度先を見て物を言うように、いえそれ以上の正確さでもって、神は未来を先に語っておかれます。

それが「くじ引き」をするという預言でした。

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救い主の着物をくじ引きにするということは、実は旧約聖書で預言されていました。

まさか、とお思いですか?

詩篇第22篇にそのことが記されています。

「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」
(詩篇22:18)

たまたまあった聖書の箇所を都合よく引用したのでしょうか?

実は詩篇第22篇はメシヤ預言の箇所で、お読みになればわかる通り、新約聖書のイエス・キリストの様子が正確に描かれていることに驚かされます。

「ダビデの歌」という表記通りダビデ本人の作だとすれば、キリストが十字架につけられる1000年前に既に言われていたということになります。

そして、くじ引きにしたのは旧約聖書のこともイスラエルの神のことも全く知らない異邦人のローマ兵ですから、彼らが聖書に合わせようとして演じたとは考えることもできません。

つまり、これは「やらせ」ではなく、神を知らない人間が神とは無関係に自分の欲望追求のために行なったことなのです。

しかし神はこのようになることをご存知で、何千年後の私たちに

「ほら、そうなったでしょ」

と、神の言葉は真実であることを知らせ、わたしの道に歩めと語っているのです。

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さて、そろそろ不登校児への2つの禁句を明らかにいたしましょう。

まず1つ目は「頑張れ」です。

不登校のお子さんは頑張っているのです。

頑張っていてもなぜか学校に行けないのです。

その頑張っているところに、なお「頑張れ!」と上乗せさせられるわけですから、重荷の上に重荷が更に載せられる感覚になります。

あえて言うとすれば、「頑張れ」ではなく「頑張っているね」でしょう。

自分の努力が認められることでお子さんの心にエネルギーが貯えられます。

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2つ目は「これからどうするつもりだ?」という質問です。

これからどうしようと思ってるんだ、と言われても、本人はどうしていいのかわからないので学校に行けないのです。

分からないのに「答を出せ」と強制されればますます苦しくなります。

またこの質問は、親がホッと安心したくて出てくる場合があります。

先が見えない不安に耐え切れず、親が子どもに「早く楽にさせてくれ」と無意識に要求しているのです。

「お前はこれから一体どうしようと思ってるんだ?」

とは、宙ぶらりんの何も決まらない状態から解放してもらいたくて出る言葉でもあります。

子どもに負担を重ねさせる言葉となることがなんとなくお分かりになるでしょうか?

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熱心な親ほどこのような「禁句」を言ってしまうものです。

子どもの問題を解決したいと思い、良かれと思って言っているのです。

そのことが逆に子どもを苦しめていることなどわからず、子どものためと思って言っていて、実はそうではなかったと知る時の親の苦しみはいかばかりでしょうか。

中には私が言い渡した瞬間、視線を外し、うつむく親御さんがいらっしゃいます。

「そういえばあの時から我が子との間には壁が生じて手が届かなくなってしまった…」

そのように思い当たることがあるので、後悔の念を浮かべて

「先生、それをもっと早く知っていれば良かった」

と必ずおっしゃいます。

ただし、たとえ事前に知っていたとしても、心の中にある思いはあふれて外に出てしまうものです。

解決の道はただ一つ。

「そうか、子どもが問題なのではなく、不登校を問題行動だとしか見て取れないこの私が変わらなければならないのだ」

と親が気づくことです。

聖書的に言えば、自分が罪人であることに気づき、的から外れた生き方をしていたことを認めることです。

その罪をイエス・キリストが十字架ですべて負って下さり、ゆるされているのだ、と親が自分自身を赦していく時、神様の力が親子関係の中に徐々に及ぼされ、そこに命が通いだしてくるのです。

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キリストによる罪のゆるしを確認し、新しい方向を示していただく今日として参りましょう。

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