今日のみ言葉【No.1454】(2017年 1月20日) 059 「エマオ途上の二人の弟子たち」(1)
「それは、どんなことか」
(ルカ24:19)
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まだJRが国鉄だった昔、東京に大雪が降りました。
電車は走っているのに、客が駅員と話してガッカリして帰っていった会話です。
お客:「中央線はフツー(不通)ですか?」
駅員:「ええ、フツー(普通)ですよ。」
お客:「やっぱりフツー(不通)か…」
最初から「走らない」「無理だ」と思い込んでいるこのお客さんは、どんな言葉も情景も不可能と認識されるようになっていたのです。
大きな絶望の中にあった二人の弟子は、イエス様と出会っていても、全くそのことに気づきませんでした。
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イエス・キリストが復活されたその日、二人の弟子がエルサレム西方11kmほどにあるエマオの自分の家に帰って行く途中でした。
彼らは復活の事実を喜びをもって伝えに行ったのではありません。
人生をかけた望みが断たれたと信じこみ、意気消沈して歩いていたのです。
もし彼らが十字架の死までしか知らなかったとしたなら、がっかりしているのもある程度理解できます。
しかし、ルカによる福音書第24章19節〜24節を見ると、この二人は復活の事実までちゃんと伝え聞いていたことが記されています。
そこまで知っていて、なぜ落ち込んでいたのでしょう?
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目の前の事実と自分の感情とは別物なのです。
起きた出来事をどう解釈しているかによって、がっかりもし、その反対の喜びも感じます。
・墓が空っぽ
・御使いが「イエスは生きておられる」と告げた
という事実に対して、
●女たち
「復活は本当だ」(解釈) → 喜び(結果)
●二人の弟子
「そんなことはあるはずがない」(解釈) → 絶望(結果)
というからくりになっていたのです。
この二人の弟子のような人たちには、正しい説明をしても跳ね返されます。
こちら側の話は受け入れてもらえません。
なぜなら、自分たちの考えが正しいと思っているからです。
時にはそのことすら意識せず、ただただ自分の作り出した感情に浸っています。
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そのただ中に入る言葉があります。
「それは、どんなことか」
(ルカ24:19)
というイエス様が発した質問です。
相手の考えを否定も肯定もせず、
「あなたの言うことはどんなことか聞きたい」
「あなたはどう感じているのか知りたい」
と関心を寄せる愛の態度こそ、この弟子たちを現実の世界に立ち返らせる神の方法でした。
こんなやさしいやり方で向きを変えていただけるとは、何とありがたいことでしょう。
彼らの全てはイエス様に受け入れられました。
ですから次の、
「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。」
(ルカ24:25)
とピシャリと決めつけられた言葉さえ、彼らにとって痛みとは感じられません。
そしてさらにその後の
「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。」
(ルカ24:27)
というイエス様の主張に対して、反発も弁解もすることなく、熱心に聞くことができたのです。
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キリストは今日もあなたに
「それは、どんなことか」
と尋ねて下さいます。
思いっきりそのことを話し、神の愛に十分満たされた後、御声に耳を澄ます時を持って参りましょう。
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