今日のみ言葉【No.1440】(2016年12月19日) 054 「総督の兵士たち」(1)
また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。
(マタイ27:29)
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クリスチャンの詩人、水野源三さんの詩に、「私がいる」という作品があります。
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「私がいる」
ナザレのイエスを 十字架にかけよと
要求した人
許可した人
執行した人
それらの人の中に 私がいる
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二千年前の時代に、私がいるはずはありません。
しかし、聖書のその場面を読む時、自分と同じ姿をその人たちの中に見るのです。
罪人の私たちの姿です。
総督ピラトの兵士たちの姿にも、私たちの姿が垣間見えます。
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マタイ27章26節〜31節では、総督の兵士たちがイエス様を王に見立てて様々なことをしています。
しかし、本当にそう思っていたのではなく、無抵抗でやり返してこない者に対して、残忍な仕打ちを続けたのです。
・いばらの冠
・つばきをかけられ、葦の棒でたたかれた顔
肉体的な苦痛だけでなく、物笑いの種にして思いやりのかけらも与えない兵士たちの心が、イエス様にとって更に精神的な苦痛となっていったのではないでしょうか。
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なぜこんなイジメを続けていたのでしょう?
彼らにとってそれが仕事だったからです。
上司である総督ピラトは、真理や正義を優先させる人物ではなく、自己保身優先の人だったので、イエス様を捕らえて訴え出たユダヤ人たちのご機嫌取りに終始していました。
ピラトが最も恐れていたことは、民衆による暴動だったからです。
そこで彼はイエス様への十字架刑の宣告をしますが、ユダヤ人たちに処刑をあきらめさせるため、見せしめの意図を持ってイエス様を痛めつけたふしが見えます。
「するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、『見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである』」
(ヨハネ19:4)
ですから総督ピラトが彼の兵士たちに命じたことは、
「このイエスという男を死なない程度に痛めつけて、ユダヤ人たちの同情を買うようなひどい様相にさせ、もう一度ここに連れて来い」
ということだったのです。
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絶対に抵抗しない、歯向かってこない相手。
こちら側の安全は保証され、相手側からの攻撃は一切出ない状態。
しかも相手を痛めつける正当な理由があり、それをしなければこちらが罰せられる状況。
ここにおいて総督の兵士たちの残虐性は解き放たれました。
無意識の中に貯めこまれていた攻撃性をとどめていた柵が取り除かれると、それは鉄砲水のように一気に飛び出していくのです。
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イエス様をむち打つ兵士の中に、私もいる、などとは考えられない方もいらっしゃるでしょう。
無理にとは言いません。
しかし、何年かかってもいいですから、本当にそうだろうか、という思いをずっと持ち続けていていただきたいと思います。
自分の罪人性に気づくことが、イエス様と出会う最短ルートであり、王道だからです。
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総督の兵士たちと一緒に「私がいる」ことを思い巡らす一日として参りましょう。
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