今日のみ言葉【No.1439】(2016年12月17日) 053 「総督ピラト」(3)
ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
(マタイ27:24)
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トルネード投法でメジャーを席巻し、イチローやダルビッシュらの日本人大リーガー誕生の道を開いた野茂英雄氏が、「ベースボールの歴史で最も重要な40人」の一人として選ばれました。
彼の大リーグ挑戦時、「日本球界の裏切り者」「通用するはずがない」とバッシングにつぐバッシングでした。
しかし、初年度の大活躍の後、マスコミは手のひらを返したように、「日本球界の宝」ともてはやしました。
野茂氏本人は、そういうものだ、と淡々と自分の好きな野球をしていたようです。
人はあれこれと変わります。
ピラトはその代表たる人物のように聖書の中に現れています。
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ピラトは罪を認められないイエス様を赦そうとしました。
「彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。」
(マタイ24:18)
そこで彼は自分の提案と主張を、ローマ帝国の温情を傘に着せて、ことの決着をつけようとしました。
「さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。」
(マタイ24:15)
しかし、22節ではどうにも収拾がつかなくなったことが見えます。
「ピラトは言った、『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った。」
(マタイ24:22)
ピラトは群衆がイエス様を「十字架につけよ」と叫んでいるのを聞いたとき、自分がし向けたことが予想外の結果になったことを知りました。
しかもそれは彼が一番恐れていたこと、「暴動」につながりかねない勢いです。
さて、どうすべきなのでしょう?
ピラトはこのイエスという男が無罪であるという自分の信念を貫き通し、正しいと思うことを断固実行し、群衆に向かって厳しい対決を挑みました…、などという展開にはなりません。
彼は群衆の前で手を洗う、ということにより、立ち向かっている問題からすり抜けようとします。
「ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』。」
(マタイ27:24)
まさに「責任逃れの人ピラト」の姿です。
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一方、イエス・キリストは、状況がどうあれ、決して変わらないお方です。
大祭司の前でも、群衆の前でも、ピラトの前でも、そしてユダの前でも、言うことは一貫し、態度は何も変わりません。
ただ神から与えられた使命を果たすことに全ての力を傾けておられました。
人間の心は、状況が変われば、ヒラリと変わるものです。
100人が100人、全ての人がそうなるわけではありませんが、私たちの内にはピラトと同じ性質がひそんでいます。
そして、時と場合の条件が重なれば、ピラトやペテロと同じ行動をする罪人に過ぎないのです。
しかしイエス・キリストは、自分が十字架について全人類の罪を贖う、という使命を放棄せず、最後の最後まで責任を果たそうとされる御方です。
キリストは変わらない方です。
この方に信頼を置く時に、様々な状況の変化に翻弄される私たちが、変わらぬ希望を持つことができるのです。
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変わる自分を見捨てることのないイエス・キリストは、最後まで変わらない御方です。
この方に希望を見出し、今日の一日も歩みを進めて参りましょう。
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