今日のみ言葉【No.1329】(2016年 7月14日) 016 「パリサイ人シモンと香油を塗った女」(1)
それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。
(ルカ7:44)
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「社会人カースト」という言葉が若者の間で流行っているそうです。
カーストとは、現在では法律で禁止されていますが、インドで古くからある身分制度です。
学生というほぼ平等な立場から、就職活動を経て正社員と非正規社員に分かれたり、格差が生じることに敏感に反応しているわけです。
終身雇用制が当たり前だった時代、会社にいれば自分の価値を疑わなくてもすんでいました。
しかしその時代は終わり、もはや転職することは一大事ではなく、ごく普通の一般的になったことで、
「自分はいかほどの人物か」
と、自己評価、自己査定をするようになり、その分、他者との比較が明確にされる時代になったのです。
聖書の時代、身分の違いがあることなど当然で、その前提で話が進んでいきます。
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イエス様は当時の社会では下層に属する大工のせがれ。一方、パリサイ人は律法を厳格に守るいわば上層エリートです。
そのパリサイ人のひとりであるシモンが、
「食事を共にしたいと申し出た」
(ルカ7:36)
とありますから、ずいぶん友好的で親しげな態度です。
同じパリサイ人にニコデモのような謙遜な人がいましたが、彼もそうだったのでしょうか?
いいえ、その表向きの態度と内にある心とは異なっていたようです。
ルカ福音書7章44節〜46節を見ると、イエス様を尊敬し、教えを乞いたいという思いのかけらもなかったことがわかります。
パリサイ人シモンの心の中にあったのは、「民衆に評判のナザレのイエスとは何者か」という好奇心であり、また、そのような人物を食事に招いたなら、人々の自分に対する好感度はアップするという目論見もあったことでしょう。
実際、イエス様が指摘された彼の行動によって、その本心があらわにされています。
・足を洗う水を与えない
・接吻をしない
・香油を塗らない
客人として招いたはずのイエス様を敬わず、むしろ見下していたのでした。
彼は律法を厳格に守るパリサイ人として、表面的には正しい生活をしていましたが、その心の中は、神が求める愛や憐れみの心に乏しかったのです。
問題は、彼が自分の本当の姿に気づいていなかったことでした。
そのことが、イエス様に面と向かって会っていながら、本当の意味で出会うチャンスを失わせてしまいました。
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私たちは愛と憐れみに富んだ神様のような完全な存在ではありません。
それらを部分的には持っていますが、神様に比べたら無きに等しい愛です。
「私は愛が乏しい人間だなあ」
「人を愛したいという思いはあるけど、いざとなると自分が大事、自分が先、という私だものなあ」
努力してもそうなる自分であることに気がつき、その自分を認めている方が良いのです。
そこに「謙遜」が生まれるチャンスが生じ、救い主としてのイエス様に出会う道が開かれるからです。
残念ながらパリサイ人シモンは自分を「正しい人」「善人」と勘違いしていました。
彼はイエス様に会っていながら、会っていなかったのです。
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本当の自分の姿を知ることは辛いことでもありますが、それを通してイエス・キリストの救いの道が開かれていきます。
真の自分を認めることで、イエス様に出会える祝福を味わって参りましょう。
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