今日のみ言葉【No.1316】(2016年 6月29日) 011 「らい病人」(3)

「そうしてあげよう、きよくなれ」
(ルカ1:41)

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教会スタッフは毎朝のミーティングで挨拶の稽古をします。

「ありがとうございました」
「申し訳ございません」
「はい、喜んでさせていただきます」

練習の時にスラスラ言えることも、いざ実践の場になると、練習していない言葉が出ることがあります。

たとえば、教会から寮に帰って休もうとする直前、牧師から

「悪いけど、○○のことをやってくれないか」

と言われた時、

「はい、喜んでさせていただきます」

という練習通りの言葉とは全く違った

「え、今ですか?」

という不満気なフレーズが口から飛び出します。

人の本音は厳しい条件が出された時に出るからです。

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マルコ1章40節〜45節の記事のらい病人は、本当に厳しい条件下に置かれていました。

一番の特徴は、彼には助けてくれる人が一人もいなかった、ということです。

熱病にうなされていたシモンのしゅうとめには、周りに助けてくれる人が何人もいて、暖かい人間関係に囲まれていました。

しかしこのらい病人の場合、全く見捨てられていました。

自分の存在を喜んでくれる人は見当たらず、自分自身さえも頼りにならない中で、彼の本音は幾重にも重なり、変化し、作られていきます。

最終的には、

「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」

という見事な言葉として表に出るわけですが、そこに至るまでの長い間は、否定的破壊的思いの連続であっただろうということは想像に難くありません。

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私たちは肉体的にはこのような重度の皮膚病にかかっていないかもしれませんが、心のらい病人であるかもしれません。

「こんな私ではダメだ」

と、心の皮膚をかきむしったり、叩いたりしますが、それでは治りません。

その時こそ、キリストに解決を求めていく時なのです。

「神様、できているつもりで、本当はこういう状態です。でも、御心でしたらきよめていただけるのですが…。どうぞよろしくお願いします。」

と祈ってみることです。

イエス様は心のらい病も癒される御方ですから、すぐにきよめられます。

自分の醜さに目を留めても癒されません。

焦点を当てるべきところは、きよめて下さるイエス様です。

ここにまっしぐらに進むこと。

すると、

「そうしてあげよう、きよくなれ」
(ルカ1:41)

というキリストの言葉の通り、いつの間にかきよくなっている人生を送っているのです。

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イエス様は私たちの「らい病」を清くすることのできる御方です。

この御方に求める一日として参りましょう。

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