今日のみ言葉【No.853】(2014年 6月27日)
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
(詩篇23:1)
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羊は人間と似ているところがあります。
(1)臆病で弱い動物です
鋭い爪も牙もなく、敵を攻撃する手段を持ちあわせていません。
(2)集団行動に走りやすい
羊は近眼なので遠くまで見渡すことができません。前の羊のお尻を見て動いているのです。
(3)食物と水を絶えず必要としています。
ここに牧者(羊飼い)の存在が必要とされる理由があります。
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「主はわたしの牧者」
と宣言することは、イエス・キリストを私たちの人生を導く羊飼いとして受け入れるということです。
すると、
「わたしには乏しいことがない」
という人生が待っています。
なぜなら、牧草や水の在り処を探し出し、そこに羊を導くのは羊飼いの仕事であって、当たり前のことだからです。
つまり、神が私たちの必要を事前に知り、現実の問題を理解し、それ解く鍵を与えてくださるのです。
「主はわたしの牧者」
と信じるだけで、もう明日のことを思い煩う必要はありません。
「わたしには乏しいことがない」
という必要が満たされた人生に真の羊飼いが導こうとして待っているからです。
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そんなに単純でしょうか?
人生は意外と単純なものです。
真理は単純にできているからです。
ただし、「乏しいことがない」人生を生きるための条件があります。
それは、自分が羊であることを認めることです。
弱さを持った自分は羊と同じで、羊飼いの導きが必要だと認めていること。
これが条件でありスタートラインです。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」
(詩篇23:1)
という人生は、自分の弱さを知り、それを認め、受け入れ、自力の解決に終止符を打ち、羊飼いの助けを受け入れる人にのみ適用されるからです。
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このような人生は理論でなく体験でわかります。
理論で説明しようとしても、本当にそうなるとは誰も証明できません。
しかし、理論的に保証されていないけれども、
「そうやって生きてみたら本当に乏しくなかった」
「想像以上に豊かな人生を送れた」
という証しによって、自分も一歩踏み出そうとすることができるのです。
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私もその一人でした。
あっという間の30年の信仰生活で、詩篇23篇1節を信じて生きてみるようにと勧めてくださった多くの先輩方の言葉は嘘ではなかったと実感しています。
献身する前、
「牧師になって食っていけるの?」
という質問を何人もの人から受けました。
しかし、食べられないということはありませんでした。
正確に言うと、断食をしてあえて自分から食べなかった時以外、常に食べるものはありました。
むしろ、お米がなくなると神様の方で届けてくださるという不思議な体験を何度もしました。
山形ジョイフルチャーチの礼拝堂の正面に掲げられている詩篇23篇1節の御言葉を見るたびに、神の約束の忠実さをかみしめています。
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弱さを認め、羊飼いなるイエス様に寄り頼む一日として参りましょう。
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