今日のみ言葉(2011年8月11日)【No.144】
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえっ
て、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」
(ローマ8:34)
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あなたは「失敗した!」と分かった時、がっかりしますか?
がっかりして良いのです。人間として当たり前です。
では、そこからどうやって自分を取り戻しますか?
これは、人間が罪を犯したと認めた時に負う、重い重い罪責感をどうするかということと
関係があります。
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人間は古来からいろいろな方法でこの罪責感を消そうとしてきました。
(1)数える
「みんなやってるじゃないですか。あの人もこの人も…。結構いますよ。」
(2)比較
「確かに私がやったことは良いとは言えません。でも、世間のレベルと比べたら、あの程
度で終わったのだから、むしろ長所でしょう?」
(3)抹消
「神がいると思っているから罪責感を持つんだよ。神なんていないと思えば楽になる
よ。」
(4)罪滅ぼし
「善いこともたくさんしているのだから、その分、これくらいは大目に見てもらおう。」
(5)活動
「もっと働いて、くたくたになるくらい動けば、そんなことを考える余裕もなくなるよ。
いつの間にか忘れているものさ。」
(6)責任転嫁
「元はといえば、あの人が言ったからこうなったんじゃないですか。」
このような方法で、「しまった!」という感覚はある程度始末することができます。しか
し罪そのものについては何もすることができません。
罪の重荷がある限り、人生には無意味さと挫折感がつきまといます。
人間に代わって神が何かをして下さらなければ、全ての人は失われていきます。
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この罪の問題をごまかして神経を麻痺させることなく、真っ向から立ち向かったのがイエ
ス・キリストです。
罪の借金を帳簿上の操作で見えなくさせたのではなく、ご自分の命という代価を払い、完
済して下さいました。
これが十字架の意味です。
ですから、キリスト・イエスを救い主と信じる者は、誰一人として罪に定められません。
もはや罪責感を背負う必要はないのです。今まで使っていた罪責感を消す方法は全く無意
味になりました。
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ではこれからどういう生き方をすればよいのでしょうか?
それは、「わたしたちのためにとりなして下さる」というキリストと共に生きることです。
今までのように罪責感を薄めようとしたり、「お前は嘘つきでどうしようもない偽善者
だ。」と自分を責める方法は綺麗さっぱり捨て去りましょう。
「私はあなたを愛しています。あなたの罪を赦し、きよめます」
というキリストの声に耳を傾けることがこれからの新しい習慣です。
以前の古い習慣に戻りそうになるその都度、すぱっと切り替えることです。
御言葉に立って生きるとはこのような生き方を続けていくことです。
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キリストのとりなしを心に迎え入れる一日として参りましょう。
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