今日のみ言葉【No.1485】(2017年 3月 6日) 069 「ベテスダの池の病人」(1)

「なおりたいのか」
(ヨハネ5:6)

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交通事故でむち打ち症になった後の何年間か、私は首の違和感に悩まされました。

病院に行ってレントゲンを撮ってもらっても、何の異常も発見されませんが、首が重いのです。

そのお陰で、季節の変わり目は気象庁よりも正確に予報ができました。

台風が来る前や梅雨時になると、首がどうしようもなくしんどいのですぐわかります。

逆に、重かった首がスーッと軽くなって解放された日は、

「あ、今日、春が来た」
「間違いなく今日、梅雨が明けた」

と宣言できました。

妙な賜物をいただいたものですが、私はそれをありがたがるどころか、早く治りたいと思っていました。

それが当然ではないでしょうか?

しかし、今日の聖書個所に出て来るベテスダの池にいた病人は、積極的に治りたいとは思っていなかったようです。

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ベテスダの池に38年間病気の人がいました。

表現の仕様のない程の苦しみの中にいるこの人に、イエス・キリストは声をかけられました。

「なおりたいのか」
(ヨハネ5:6)

妙な質問があったものです。

病人は「良くなりたい」と思っているに決まっているのではないでしょうか?

しかし7節の彼の返答をみると、その心の中には否定的思いが詰まり、「治るはずがない」という非常に強い確信で満ちていることが見えます。

「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』。」
(ヨハネ5:7)

イエス様の核心をついた質問によって、彼の本当の姿が明らかにされました。

そしてこの考え方が、彼を病気のままにしていたと言えます。

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実は世の中には意外に多くの「治りたくない人」がいらっしゃいます。

その理由は様々ですが、ひとくるめにして「病床利得(びょうしょうりとく)」という言葉で表現されます。

なぜ治らない方を選んでいるのでしょうか?

それは、治ってしまったら、「健康なんだから…」と責任や義務が課せられることが見えているからです。

しかし、病気でいればその重荷を避けられます。

そこで人は無意識に自分の身体が病気になっている方が得だと判断し、自分で自分の体を治らないようにしているというのです。

また、先ほどのムチ打ち症でも、痛みを手放さないというケースがあります。

痛みが来るたびに「許せない!」と加害者である相手を恨むことができますが、痛みが無くなったらそれをすることができません。

そこで、人は無意識に自分の体に痛みを作り出し、病院の精密検査で何の異常も発見されず、身体的にはどこも悪くないのに、痛みを感じるというわけです。

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イエス・キリストは、ベテスダの池のほとりで寝ていたこの病人に対して、

「なおりたいのか」
(ヨハネ5:6)

という質問を投げかけ、彼の心を開き、そこを突破口として癒しに導いていかれました。

私たちにも同じ質問が投げかけられています。

あなたは今ご自分が感じておられる問題に対して、

「解決したい」

「なおりたい」

と思っていらっしゃいますか?

じっくりと自分の心を探り、神との会話をなす今日の一日として参りましょう。

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