今日のみ言葉【No.1375】(2016年 9月26日) 031 「ベツサイダの盲人」(3)
すべてのものがはっきりと見えだした。
(マルコ8:25)
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「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」
江戸時代の俳人、瀧瓢水(たきのひょうすい)の句です。
目の前の海に入ればどうせ濡れるのですから、海女は蓑など着る必要はないように思えます。
しかし、サッと降ってきた時雨に対して、身をかばって蓑を着るたしなみ、ゆかしさ、美しさ。
一瞬の構図を絵画にしたかのような見事な一句です。
この句には、
「どうせいつかは死ぬ命なのだから」
と命を粗末に扱うことを戒める意が込められています。
瓢水が言いたいことは、
「せめて命のある限り、生かされている我が身を大切していく」
ということなのです。
ベツサイダの盲人は、イエス様によってこの世界へと導かれていきました。
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最初は何が何だか分からず、人々に連れられてやってきたのがベツサイダの盲人でした。
神に希望を置くなどという考えすらありません。
また、この盲人の場合、肉体の目が見えなかっただけでなく、心の目も閉ざされたままでした。
彼は自分の人生を見つめることができなかったのです。
目が見えないハンディがあるなら、それはそれなりに自分はこれからどう生きていこうか、というチャレンジ精神はもう枯渇してしまったのでしょう。
「人生こんなもんだ」「どうにもなるわけでもない」「どうせ無理」
このような言葉にしがみついていれば、望みを持たず、特別に期待せず、流れに身をまかせて生きていけます。
その方が楽なのです。
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そのような人でも、いいえ、そのような人だからこそ、イエス様は周りの人たちの信仰を通して働いて、神の御業を体験させようとなさるのです。
「私も生きていけそうだ」
ぼんやりとでもそう思えただけで、一歩前に進みだしたというものです。
イエス・キリストは、神に望みを持たない人にも働きかけ、その人生観を変化させようと働かれるお方なのです。
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神に望みを持たない下向きの人生を送ってきた人こそ、イエス・キリストと出会える資格十分の人です。
人生観が変えられる出会い。
それは今日であるかもしれません。
はっきりと見え出す人生の転機があることを堅く信じ、「どうせ」から「せめて」への人生観の転換をさせていただきましょう。
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