今日のみ言葉【No.621】(2013年 7月30日)
わたしは油を注がれた王であるけれども、今日なお弱い。
(サムエル記下3:39)
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ダビデは軍部の独走を押さえられませんでした。
3章ではダビデ軍の将軍ヨアブがサウル軍の将軍アブネルを殺害してしまう事件が記されています。
ヨアブは自分の弟が殺された恨みを晴らすため、ダビデに自分の行動を知られないようにして実行しました。
「わたしは油を注がれた王であるけれども、今日なお弱い。」
という今日の聖句は、王として任命はされたけれども、まだまだ実力が伴わないダビデの嘆きの言葉です。
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現代でもそのような状況を目にすることがあります。
肩書きが与えられて実力はこれからという方々の苦労です。
二代目の若手社長が古参の事務局長に頭が上がらない、とか、新米医師がベテラン看護師からたしなめられる、とか…。
クリスチャンも同じで、「神の子」という素晴らしい肩書きが先行しますが、実態は
「この間悔い改めてスタートしたばかりの赦された罪人」
です。
世間が
「クリスチャンだからこれくらいは…」
と要求するイメージ通りに毎日生きられるはずがありません。
つまり、洗礼を受けたということは霊的に新しく生まれた、ということで、霊的幼な子からスタートします。
洗礼を受けて、いきなり大人として霊的に生まれるわけではないのです。
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あなたは霊的何歳児でしょう?
霊的0歳児ならば、堂々と霊の乳、すなわち御言葉を読み、どんどん栄養を吸収することが最優先です。
「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
(第1ペテロ2:2)
0歳児は自立しようとして自分で立ってはいけません。転んで怪我をしてしまいます。
立つ前に十分栄養を取り、体全体が立つのに十分なくらい強くなることが先です。
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まだおむつが取れない霊的3歳児ならどうでしょうか?
つまり、一丁前のことを言うけれども、弱音や愚痴、肉の思いを自分で始末できないので、周りの方々にお世話になっている人です。
そのような人は、おむつを取って自分でトイレに行けるように、誰かにそばについてもらって、やさしくトレーニングをしてもらわなければなりません。
おもらししても、怒らないで
「きっとできるようになるよ。」
と、やさしく励ましてくれる人を選び、つきあってもらうのです。
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このように、クリスチャンは一挙に大人になってはいけません。
おのおの、その霊的ステージに見合った訓練があるのです。
完全受容が必要な時期があり、厳しい訓練が必要な時期もあります。
どの段階でも共通するのは、
「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、」
(ピリピ3:13-14)
とあるように、成熟した姿を目指し、必ずそうなると信じて神の訓練にチャレンジしていくことです。
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クリスチャンは肩書き先行、実体後行です。
焦らず、くじけず、御言葉と祈りにより実体を築き上げていきましょう。
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