今日のみ言葉【No.1705】(2018年 2月16日)「 打たれるということ」
互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
(コロサイ3:13)
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『カウンセラーは小キリスト』(田中信生著、新生出版社)という本があります。
この題名の通りです。
キリストがゆるされたように私たちも人をゆるして生きる。
キリストのコピーとなること。
そう生きられれば良いと頭ではわかりますが、いざ行うとなると決して容易なことではありません。
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実際に私は2度体を壊しました。
ゆるし過ぎたのです。
人間である自分の限界を越し、キリストのように十字架についたつもりになっていました。
すると人は容赦なく打ちたたき、際限なく罵声を浴びせるものです。
「これは死ぬなぁ…。イエス様が十字架について死なれたとはこういうことか」
と十字架の意味の万分の一を体験させていただいたように思います。
本来私がなすべきことは、「あの人、ゆるせない!」という怒りと復讐の念があることを認め、それをイエス様に祈りを通してぶつけ、キリストから「あなたのそのままでよい」というゆるしを受けることでした。
自分のほうが正しいと思っている相手です。
その人をゆるせない自分を神にゆるしていただき、相手に「いい人」という顔を向けることをやめ、罪人である自分の限界を認めて、相手から離れることが必要だったのです。
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この体験は私のカウンセリングの仕方を変えました。
「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」
(イザヤ53:5)
との御言葉は本当ですから、カウンセラーがクライエントの傷を負うことによって癒やしが進みます。
全てを完全に受け止めることはできません。しかし、クライエントが心の毒や傷をカウンセラーに吐き出さなければ進みません。
そこで、
「先生、そんなことやったってダメですよ」
というシーンを意図して作り出し、カウンセラーの力量の範囲内でクライエントから
「打っていただく」
ということをするようにしました。
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たとえばこのようなことです。
うつ状態で元気のない人を何とか励まそうとして、周囲の親切な人たちは
「好きなことをやったら?おいしいものを食べて、旅行にでも行ったら気が晴れるよ」
とアドバイスしてくれますが、当の本人にとっては
「趣味はないし、食欲もない。旅行で外に出るなんて考えるだけで億劫だ」
と迷惑千万でしかないのが実態です。
ところで、私もあえて同じことを言いますが、うつの人の状態を変えようとすることが目的ではなく、私が打たれることを目的として質問します。
「何か好きなことないの?」
→ 「ありません。何をやってもダメです」
「そうですか。じゃあ、グルメなんかどうですか?」
→ 「ダメです。食欲がないし、何を食べても味がしません」
「なるほど、じゃあ、この際、ディズニーランドのような楽しいところへ旅行にでも行ってみたら?」
→ 「無理です。それを考えるだけで疲れます」
「そうかぁ、わからなくて、役に立たなくて申し訳ないなぁ…」
これを数回のセッションで繰り返します。
このようにして、
「ダメだ、それもダメだ、まだわからないか、あなたの言うことは全部ダメなんだ」
と私が連続して打たれ、敗北することによって、クライエントは上になった勝利の体験を持ち、それが一時的にでも心のエネルギーとなり、癒しの土台となっていくのを見ます。
もちろんキリストのように十字架で死ぬくらいまで受けきることはできません。
しかし、小キリストとなって生きることを目指すのです。
ゆるしを一生の課題として生きていくということは、そのような繰り返しのように思われます。
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あなたの限界を知ったら、そこまでゆるせる小キリストとして生きてみましょう。
そして僅かずつでもその限界を伸ばし、人の痛みを受け止める者として成長させていただきたいものです。
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